2024年3月28日(木)
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東日本大震災から10年「あの時、県民は」

寄り添う「ぶんちゃん」取材班
あの時、県民は

 東日本大震災の発生から、来月11日で10年が経ちます。みなさんは「あの時」に何を思い、「その後」をどのように過ごしてきたのでしょうか。一人一人の経験が次の世代への大切な教えになります。
 5回シリーズの紙面企画「あの時、県民は」では、証言を集めながら震災発生時の状況を紹介してきました。「寄り添うぶんちゃん取材班」では、震災の記憶を風化させないためにも、さらに多くの経験談を募ります。寄せられた内容は、山形新聞のホームページ「やまがたニュースオンライン」の特設コーナーで紹介し、後日、紙面での掲載も考えています。

質問項目
  • (1) あの時、どこで何をしていましたか。
  • (2) 大きな揺れを感じて、何を思いましたか。
  • (3) 地震発生後に困ったことはなんですか。
  • (4) 災害への備えなど、震災後に変化はありましたか。
  • (5) 震災を経験し、どんな教訓を伝えていきたいですか。
  • (居住自治体、年齢、性別、職業)
  • (1) 定年退職して5年、のんびりしてた午後自宅に友人の来訪があり、帰られてすぐに猛烈な揺れにおそわれた。
  • (2) 経験したことのない揺れに驚き家内と建物の倒壊に巻き込まれないよう広い道路に避難した。日中留守の年配者が多く集まりました。震源地は未だわからず震源地地方の被害の大きさが直感的に案じられた。昭和39年の新潟地震の酒田の被害が大きかったが、自分は学生で東京にいたので経験した地震では最大だった。ポスレジは停電で買い物はできず、この停電は長期だろうとすぐに個人電気店で電池を買い求めました。
  • (3) 情報源はラジオに限られ、携帯やカーナビのワンセグはすぐ電池切れになった。灯油は200リットルくらいストックがあり少し安心、車は急用に備えガソリンスタンドがあくまで使用しなかった。暖房は石綿芯で燃やすスープがあったので助かった。食品は選ばなければ手に入った。ただ、自分は30歳まで石巻工業港開港と同時に設立した会社に勤務していたので、ニュースが我事として惨事に心が痛み沈痛な気持ちが続きました。かつての同僚の死や住んでいた大街道地区はじめ工業港団地の惨状に沈み込みました。
  • (4) 昭和35年のチリ地震津波で北上川の内海橋近くに沈んだ漁船はその後10年以上見られました。石巻の人から津波の怖さを聞いたことはなかったが、鮎川など半島の人はよく怖さを聞かせてくれてました。51年後東日本大震災は起きた。自然の時間を意識するようになりました。
  • (5) 震災後酒田の海岸には避難路のテープがやたらとありました。いまは朽ちてます。このブレの大きさこそ危険なのでは。いつまでも冷静に構えていたいと思う。今は集中豪雨の危険性が注目ですが、継続して注意したいと思う。
  • 酒田市 76歳 男性 無職  
  • (1) あの日は会社でちょうど3時の休憩時間でした。友人の携帯からの地震の知らせ音が今でも忘れられません。
  • (2) 揺れを感じて家族の安否を先ず一番に心配しました。
  • (3) 停電と、まさか?ガソリンが無くなるとは思いもよらず、何回かスタンドに並びました。
  • (4) いつもガソリンは半分になればつめる事、水も毎晩ポットとヤカンに入れる。ある程度の保存食もストックし、乾電池、ローソク、懐中電灯、ラジオ、薬、いつでも着替えが出来るように布団の横においてねてます。乾電池、ローソク、懐中電灯、ラジオ、薬、ペットボトルの水はリュックに積めてます。他は自分が必要な物は各自用意してます。
  • (5) 避難の際、携帯も込み合いつながらず、隣近所の声かけや、学校の校長先生、教頭先生が手分けして子供達の自宅に出向いて来てくれて保護者で連絡を取り迎えにいけた事は大変たすかりました。私が幼い頃に祖母からろうそくを使う場合は、輪切りの大根に竹串を刺すと火事にならない事を聞きました。あの日は、ガスも水道も使えて、ペットボトルにお湯を入れ皆で茶の間のこたつで眠りましたね。ローソクは勿論大根に刺して皿に入れ、私のウェディングローソクデカイやつ(笑)を使いました。土鍋で炊いたご飯が息子は今でも記憶にあるようです。ラジオも亡き祖母のカセットテープが使える大きいやつも使いましたね。反射式ストーブも丸いサーロインストーブも家にはあったので、暖はとれたので良かったです。石油も切らさない事が重要ですね。
  •  
  • (1) 仙台14時発米沢行きのバスで妻の実家(高畠町)に向かう途中、国見パーキング手前5kmの地点で地震に遭遇。
  • (2) バスがローリングして、何が起こったのか理解できなかった。
  • (3) 妻の携帯につながらず、連絡のしようがなかったこと。
  • (4) 懐中電灯やローソクなど、停電に備えるようにした。
  • (5) いつ、どこで地震に遭うか分からないので、パニックにならないように行動する必要がある。
  • 高畠町 72歳 男性 無職  
  •  東日本震災の時、私は介護の研修で東京のビルの中にいました。60名ほどの人数の中、57名が女性、揺れるたびに窓を叩きつけるプライドの音がすごく、女性の悲鳴!生き地獄でした。電車が止まり帰れなくなりましたが、震災の2日後、上越新幹線が再開し、新潟経由で帰ることに!接続の羽越線は通路もいっぱい
     隣には若い2人の女性、嫌でも話しが聞こえた。2人は仙台から休みを利用してデズニーランドに遊びにきたこと。震災後、友達が家を見に行ったらなかったこと、今日中に仙台に帰りたいこと。電車が鶴岡に着いても山形行きのバスは間に合わない、なんとかこの子達を仙台まで帰してあげたい、また他にも山形や仙台まで帰りたいと思っている人がいるはず!そう思った私はメールで家内に事情を説明し、バス会社と交渉させました!
     このことはすでに他の乗客が車掌を通してバス会社に連絡してもらったのですが、バス会社からはどんな理由があっても定刻しか発車できないと断られた後でしたが、家内の粘り強い説得で奇跡がおきました。
     何度も断られたとメールがきましたが、なんとか交渉してくれ!と何度も返信し、臨時便をだしていただくことになりました。代表者の名前を教えてくださいとバス会社から言われ、私の名前を告げたとのことです。
     鶴岡駅に着く直前、私は皆さんに連絡します。ショウコウモールというところから、山形行きのバスが待っています。私が先に行ってバスと待ってますので、皆さんは慌てずショウコウモールまで来てください。と伝えました。駅に着き、隣の女の子達に、元気でね!と伝えると、軽く会釈をして微笑んでくれました。電車を降りた時、3~4名の方が一緒に右往左往しながら、ショウコウモールを捜してくれました。
     その日は月山新道が通行できず、新庄経由で帰りになり遅くの到着予定でした。発車してしばらくするとまた奇跡がおきました。ある男性が私にかけ寄り、すいません!どちらにおかけし交渉したのでしょうか?と聞いてきました。山交バスです!と伝えると、今日中に仙台に帰りたいので、私に電話番号教えてくださいと!すると、その男性、山交バスとの電話で、すいません!今山形到着後の仙台までのバスの交渉をしています。仙台まで帰りたい方いらっしゃっいますか?と尋ねると、ほとんどの乗客が挙手しました。交渉成立し、山形到着後、仙台行きが確約しました。場内は拍手喝采でした。山形に到着後、私は最後の乗客が降りるを確認して自宅に帰りました。最終の仙台行きがない時間帯に臨時便をだしていただいた山形交通には感謝の気持ちでいっぱいでした。
  • 山形市 50代 男性   
  • (1) 当時妊娠7ヶ月で、酒田市内の実家に里帰り中。居間のこたつに入っていた。テレビをつけたら画面に緊急地震速報が出ていたが、すぐ停電になり消えてしまった。
  • (2) 長い横揺れが続き、「築三十数年の実家は壊れないだろうか?」隣で昼寝をしていた4歳の娘は地震でもまったく起きない。「上から物が落ちて来ないだろうか?」そして、「福島県内に住んでいる夫は無事だろうか?」
  • (3) 夫とは地震直後に携帯電話がつながったが、それから数時間は全然つながらない。深夜になってようやく再度連絡が取れた。丸一日続いた停電で、テレビから情報が取れない。ラジオでは同じ情報を繰り返すのみで知りたいことがわからない。照明、暖房、炊事、携帯の充電などなど電気がなくては困ることがたくさん。ガソリン不足。食料品(納豆やヨーグルトなど)の不足。紙オムツや生理用品の不足。福島第一原発事故により、自宅アパートへ戻ることができなくなった。
  • (4) ガソリンは半分になったら満タンに詰める。食料品(缶詰やレトルト食品)や飲料水の備蓄と半年毎の点検、入れ替え。紙製品や乾電池のストック。高さのある食器棚は低い引き出しタイプに替えた。家族で災害時の避難場所を確認。近所の方との普段からのコミュニケーション。
  • (5) まずは命を守ること。海側にいたら遠く高いところへ避難。備えていても想定外のことはあると思うので、家族で協力したり、まわりの方との情報交換や助け合いが大事だと思う。コロナウイルスの影響で思い通りにいかないことが色々ある世の中だが、私達被災者は震災以来人生がガラッと変わってしまったという経験をしてきた。今の状況を受け止め、受け入れ、その中で自分にできることをできるときにやっていく。
  • 酒田市 47歳 女性 パート  
  • (1) 私は生後5ヶ月の次女と母と自宅にいました。私は母に娘を預け買い物に行く準備をしていました。突然の地震そして長い揺れに驚き、次女を抱いている母に子供用の敷布団を頭にかぶせ私はテレビをつけ揺れがおさまるのを待つしかありませんでした。
  • (2) まずは長女が保育園にいるため、あまりの大きな揺れに無事なのか不安でしたが、先生方が守ってくれていると自分に言い聞かせました。そして、会社にいる夫や出かけていた父、離れて暮らす家族や親戚などみんな無事なのか心配でした。そして、落ち着いたところでテレビで流れる津波の映像などを見て、庄内にも津波がくるのではないかと不安で怖かったです。
  • (3) 次女のおむつやミルクが近くにある店では買えなくなり、中部地方に住んでいる親戚から送ってもらいました。
  • (4) まずは防災グッズや長持ちする水や食べ物などを買い揃えました。ガソリンも半分以下になるとできるだけ満タンにしたり、地域の防災訓練に積極的に参加したりと、災害に対してすごく考えるようになりました。災害も地震だけではなく様々ありますが、前より冷静に早めの行動をとるようになりました。
  • (5) 長女が昨年から宮城県に住んでいるのですが、震災当時の記憶は少し覚えているくらいの程度でしたので、学校での授業で学ぶ以外にも私と映像や写真を見たりしたときはたくさん話をしました。それがよかったのかどうかはわかりませんが、先日の地震の直後に長女の携帯が繋がり声は動揺していましたが、私と話しながら冷静に行動をしていました。次女はまったく記憶がないわけですが、一緒に防災訓練に参加したり震災について災害についてなど話しています。そういったことから、庄内ではあまり災害がないのでどんどん危機感もなくなってしまうので、毎年必ず家族で災害に備える事や話し合う事が大事だと思っています。
  • 鶴岡市 40代 女性 パート  
  • (1) 町内の総合交流プラザで、町に登録している高畠健康麻雀クラブで麻雀をやっていました。火曜日と金曜日に開いており、確か金曜日でした。
  • (2) 普通の地震だと1分か2分ぐらいで収まるのですが、長いので係の方から中止にして帰って下さいと言われました。片付けはそのままにして下さいとし、外も揺れていました。
  • (3) 停電があって回復は3月12日のお昼頃だと思います。朝食のごはんをたくのに糠野目(停電なし)の兄宅に炊飯器を持って行き、出来上がって持って来て食べました。前日夜はローソクを立て、卓上コンロを使って夜食を食べました。
  • (4) 家具などは倒れないように固定してあったので、ほとんど倒れず、小さな飾り物だけ倒れただけなので、下にマットは重要ですよ。2021年2月19日、大きな食器棚も上で固定しました。2月13日の地震でも大丈夫でしたが、念のため。
  • (5) 慌てないで、揺れが収まるのまで落ち着く事と、私の所では妻と2人ですが、妻は2Fで、私は1Fで寝ているので、お互い声を掛け合う事です。3・11は義母が1人で住んでいたので心配で連れてきて、3人でわが家で夕食でした。昨年2月28日に87才で旅立ちました。
  • 70歳 男性   
  • (1) 病棟(職場)で仕事中でした。
  • (2) 家にいる家族は、大丈夫だろうか?また、患者さんは、不安にならないか?と思いました。
  • (3) 停電と信号機が機能しなくなったこと。また、ガスも止まったこと。
  • (4) 飲料水の確保、2、3日分の食糧の確保、炭を用意している。
  • (5) 避難指示が発令されたら、すぐに避難する。寝室の寝る場所には、タンスなど大きな家具は、置かない。通帳、金銭をまとめておく。
  • 酒田市 60代 女性 看護師  
  • (1) お嫁さんが3番目妊婦検診の為 送迎中車運転中でした。
  • (2) 運転中だったけど 人生初の揺れを感じて バラバラにいる家族の安否です。
  • (3) 備蓄商品が 全くなかったから これから先の生活方法が頭をよぎりました。
  • (4) 震災後 変化はおおいにあり 備えありの生活を10年近く続けて毎日を送っています。
  • (5) 震災から8日後に産まれた孫が10才に毎年3・1 1 には 心を寄せあって 地震の事を 話しています。うるうるした目をしながら 聞いてくれています。そんな教えを頭に詰め込んで 立派な大人になって欲しいです。
  • 東根市 62歳 主婦  
  • (1) 立谷川工業団地のバイト先で青空の下バイク整備をしていると緊急地震速報が!当時は緊急地震速報に耳馴染みもなくどこのことかなぁと思っていたら激しく揺れ始め、道路向かいの他社のサッシがガッシャガッシャと音をたてていたのが忘れられません。
  • (2) 何がとかどこがとかは分かりませんでしたが、これはとてつもないことが起きていると思いました。
  • (3) 山形市西部にある自宅まで帰るのに、あちこちの信号機が点滅し渋滞が発生していた為、家までなかなか帰れなかった事です。
  • (4) 少しずつですがキャンプ用品を買い揃えたり、タンスには転倒防止の器具を取り付け、倒れてきても直接当たらないような位置に布団を敷くようになりました。
  • (5) 先日の福島県沖の震度6強の時には、友人と釣りの為に石巻に居たのですが、ここを越せば河口の港ってところで地震にあい、すぐに津波がくるだろうと思い逃げました。海辺へ行く時には先に避難場所を考えることを忘れないでほしいと思いました。
  • 山形市 40代 男性 会社員  
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