社説

山形の映画支えた高橋卓也さん 熱い志を受け継ぎたい

 山形国際ドキュメンタリー映画祭は1989年、山形市の市制施行100周年を記念して始まった。2年に1度開催され、昨年で17回を数える。

 一見いかにも官製のイベントのようだが、実際はちょっと違う。山形映画祭はスタート当時から、地元の映画好きたちの泥くさい議論や行動力によって支えられてきた。そこに行政のパワー、東京事務局の知見やノウハウが合わさり、独特の個性を持つ映画祭となった。

 当初から映画好きの輪の中にいたのが高橋卓也さん(山形市)だった。映画の上映活動に携わった後、新たに誕生した山形映画祭を応援する市民ネットワークをつくった。2005年に映画祭実行委員会入り。07~18年には実行委の事務局長を務めた。近年は映画のプロデュースに力を入れ、上山市の農民詩人木村迪夫さんの生きざまを追った「無音の叫び声」、栽培や染色といった紅花に関わる仕事の現場を丹念に撮影した「紅花の守人 いのちを染める」などを世に送り出した。先月15日、66歳で急逝した。

 今月20日、山形市で開かれた「お別れの会」には県内外から300人が詰めかけた。ゆかりのある人々が実に多くのメッセージを寄せた追悼冊子「一回限りの絶賛上映」もできた。冊子からは、高橋さんが映画祭や山形の映画関係者にどれほどの影響を与えてきたかが伝わる。だが高橋さんが旅立った今、残された者たちが志を継いで「映画の都・山形」をもり立てていかなければならない。

 山形映画祭は30年余りの歩みを通して世界から注目され、映画人を世代を超えて引き付ける存在になった。19年のアジア千波万波部門に「エクソダス」を出品したイランのバフマン・キアロスタミ監督はその好例だ。同作は、滞在許可なしにイランで出稼ぎをしていた多くのアフガニスタン人が、米国の経済制裁によって苦境に陥ったイランを離れようと出国管理施設に列をなす人間模様を捉えた。彼の父は名作「友だちのうちはどこ?」を監督し、1993年の山形映画祭で審査員を務めた巨匠アッバス・キアロスタミ(故人)である。父から山形の思い出を聞いて「いつか自分も」と思い続け、「夢がかなった」と話した。

 草創期に、映画祭のこのような近年の姿を予見できた人はほとんどいなかっただろう。それだけに歩みの過程には苦労も多かった。2006年には運営組織が山形市から独立し、民営化された。歯車がちょっと狂えば空中分解しかねない状態を、高橋さんをはじめ山形人は粘り強く乗り越えてきた。

 映像文化活動を通して映画祭が蓄積したものは、イベントだけにとどまらず街づくりにも影響を与えていく。17年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「創造都市ネットワーク」に、山形市の映画分野での加盟が認められたのだ。

 3年前の高橋さんの文章がある。映画祭にも創造都市ネット加盟にも深く関わった経験を元に、こう記した。「旺盛な好奇心とエネルギーを持ち寄って色んな人が関わってやるのが一番じゃないか」。人口減少や高齢化など課題を抱える地域でも、できることはまだまだある。そう感じさせてくれる。

(2022/11/26付)
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