本紙記者、南極へ・白瀬矗の足跡を追う第2部(上) トラブル続きの航海

2023/11/28 09:48
雪原に日章旗を立て、大和雪原と名付けた白瀬矗(中央)(白瀬南極探検隊記念館提供)

 【フリマントル(オーストラリア西部)=報道部・小田信博】オーストラリア・フリマントルで観測船「しらせ」と合流した第65次南極地域観測隊(橋田元隊長)は27日、艦内で観測に向けた準備を本格的に開始した。日本を出発してから約2週間の船旅だったが、約100年前、白瀬矗(のぶ)率いる探検隊は寄港地にたどり着くまで2カ月以上を要した。白瀬の足跡を追う第2弾は、南極までの道のりや「しらせ」の役割を紹介する。

 現代の観測隊はオーストラリア経由で南極に向かうが、当時の探検隊が立ち寄ったのは、ニュージーランドのウェリントンだった。設備が乏しい開南丸での航海はトラブル続きだったようで、暑さで食料が腐敗したり、一緒に連れたカラフト犬の多くが寄生虫によって死んでしまったりした。

 しかも、港にたどり着いたのは日本出発から年をまたいだ1911年2月で、南極は長い冬を迎えつつあった。それでも、白瀬は数日で補給を終えると、南下を敢行。嵐吹きすさぶ荒海を突き進んだが、氷海に阻まれ、最後には船が閉じ込められそうになった。南極を目の前に前進を断念し、やむなくオーストラリアのシドニーに寄港した。

 ここで「失意の帰国」とはならなかった。寄港後、探検隊は現地で野営生活を送りながら、再び南極に夏が訪れるのを待った。当初は怪しい一団として地元住民から白い目で見られたが、親日家の援助もあり、次第に受け入れられたという。

 船の修理や物資を補給しながら英気を養い、同年11月、南極に再挑戦した。この時点で南極点レースから大きく後れを取っており、白瀬は現地調査に主眼を置いた「学術探検」へと方針を切り替えたとされる。2度目の航海は比較的順調で、12年1月に開南丸は南極のホエール湾に到着した。11歳で北極探検を志してから40年、行き先は真反対となったが、白瀬はようやく夢をかなえた。

 南極到着後、白瀬は内陸探検を行う「突進隊」と船で南極沿岸を調査する班に分け、自身は突進隊長として内陸に向かった。犬ぞり2台で9日間走り続け、一日で100キロ近く走破する日もあった。計約280キロ進んだところで隊員も犬も限界を迎え、南緯80度5分を最終地点とした。

 白瀬は氷原に日章旗を立て、一帯を「大和(やまと)雪原(ゆきはら)」と名付けた。南極点までは遠く離れていたが、日本人として初めて足跡を残した功績は歴史に刻まれ、後に日本の南極観測を大きく手助けすることになる。

「大和雪原」実際は棚氷

 白瀬矗が「大和雪原」として旗を立てた一帯は南極大陸につながる巨大な棚氷で、正確には大陸ではなかったことが後年の調査で分かった。白瀬らが最後に立った場所のずっと真下は陸地ではなく海だったが、はた目には広大な雪原にしか見えない。日本人による南極点到達は56年後の1968(昭和43)年12月、第9次南極地域観測隊によって実現された。

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