徳川家康の重臣・酒井忠次の活躍を伝える逸話「酒井の太鼓」について、「歌舞伎による創作」という通説を覆すような資料の発見が相次いでいる。江戸中期ごろの書物にほぼ同じ内容の記述があり、江戸末期の日記にも関連する内容が書かれていた。歌舞伎が初演された明治以前から伝承されていた逸話であることを示唆しており、忠次の子孫・旧庄内藩主酒井家の入部400年を彩る話題として注目される。
光丘文庫に文書■庄内藩士の日記
記述が見つかったのは酒田市立光丘文庫所蔵「三河御開国備考大全」。徳川家の成立に関し、歴史に脚色が交ざった実録・軍記物に当たる。逸話の舞台・三方ケ原の戦いについて、忠次の打つ太鼓が敵軍を退却させた旨が記されていた。
鶴岡市史編さん委員の秋保良さん(72)が記述を見つけた。出版年の記載はないが、1742~55(寛保2~宝暦5)年にまとめられたとみられる。注釈にある藩主名などから年代を割り出した。逸話を除いた、武田勢侵攻から家康帰城の経過は他の史料とほぼ一致していた。秋保さんは「歌舞伎や講談の典拠となった可能性がある」と考察する。
調査のきっかけになったのは庄内藩士鳥海良興(とりのうみよしおき)の日記だった。1849(嘉永2)年に藩主の上洛に同行した記録で「浜松城を見て忠次の故事を想起した」旨がある。太鼓が城に残っているとの伝聞も記されていた。
日記は子孫の良明さん(70)=鶴岡市神明町=が保管し、今年3~7月に県地域史研究協議会の小野寺雅昭理事が解読、秋保さんが校閲した。藩士の間に逸話が伝わっていたことを物語る記録で、良明さんは「公開して役立てたい」と喜ぶ。
一方で疑問も残る。酒井の太鼓に関する記述は、あってもいいはずの庄内藩の歴史書からは見つかっていない。「誇らしい話のはずだが」と首をかしげる秋保さん。入部400年を機に、さらなる新発見が期待される。
メモ
「酒井の太鼓」は徳川家康が武田信玄軍に大敗した1572(元亀3)年の三方ケ原の戦い(静岡県浜松市)に関する逸話で、酒井家初代・忠次の武勇を伝える。歌舞伎作者の河竹黙阿弥の台本を基に9代目市川団十郎が1873(明治6)年に初演し、広まったとされる。作品名は「太鼓音智勇三略(たいこのおとちゆうのさんりゃく)」。
徳川軍を追撃しようと武田軍が浜松城に迫る。城で留守居役をしていた忠次は城門を開き、堂々と太鼓を打ち鳴らす。何か策があると感じた敵は撤退した―とのあらすじだが、忠次は留守居役ではなく、当時の文書や記録にもないため、黙阿弥の創作とされている。
|
|