戦後76年、米軍がいた場所(5) 墜落の謎狙いは山形か

2021/8/15 11:46
不忘山に墜落した米軍爆撃機B29の尾翼。機体番号が確認でき、人の姿も見える(写真は上下ともに県教育センター・安斎ライブラリー提供)

蔵王・不忘山にB29、真相追求道半ば

 雪上に転がったプロペラ、ぼろぼろになった尾翼。天童市の県教育センターに27枚の写真が所蔵されている。1945(昭和20)年3月10日未明、蔵王南端の不忘山に墜落したB29だ。最初に落ちて炎上した1番機で、元山形大教授の安斎徹氏が撮影した。日時は不明だが、事故から日を置いていないと推察される。10日午前0時ごろは西高東低の気圧配置で、日本海側は風速15メートル前後の吹雪、太平洋側は晴れだった。

 岩手県の元高校教諭加藤昭雄さん(75)は著書「B29墜落の謎と東北空襲」で▽3機は編隊ではなく、悪天候などでそれぞれ操縦不能となり、約1時間おきに墜落した▽1、2番機は山形方面を目指してグアムから向かっていた▽焼夷(しょうい)弾を積んでいなかった3番機は、東京か盛岡、青森の空襲からの帰り道だった―と推論。連合国軍総司令部(GHQ)報告書や目撃証言から以下のように導き出した。

赤丸付いた地図

 【3機ばらばらに墜落】

 不忘山南東にある宮城県白石市の住民が9日夜「犬吠埼(千葉)からB29が仙台方向に北上中」との警戒警報と、キーンキーンという飛行音を聞いた。山形方面に向かった後、山から炎が上がるのを見ている。この証言の時刻から1番機は3月10日午前0時ごろ、2番機は同0時半~1時半ごろ。3番機はサイパンを出発した時刻から同2時~2時半ごろと推定した。



雪の上に散乱するB29の機体。乗組員11人が亡くなった

 【残骸と遺体は語る】

 3機はエアポケットに入るなど悪天候が要因で航行不能になったとみられる。1番機は不時着後に炎上。パラシュートをかぶった遺体は脱出を図ったか防寒のためと推察される。2番機は大若沢に激突し、ほぼ全員即死した。墜落前に麓では「星みたいなものが飛んだ」「ボンボンと炎が上がった」との証言があり、事前に焼夷弾を落としたとみられる。1番機のようにならないよう、重量を軽くするなどしたとも考えられる。一方、3番機に焼夷弾は載っておらず、攻撃任務を果たした後だったと結論づけた。

 【標的は山形なのか】

 3月10日に東京以外で攻撃したと米軍が記録しているのは千葉や茨城、仙台。20人が犠牲となった盛岡や福島、青森が含まれていない。目標が見つからなかった場合に第2、第3の地を攻撃することはあるといい、山形が狙われたとしても不思議ではない。残骸の中に「山形市に赤丸が付いた東北地方の地図があった」との証言もある。

 「残すべき事実」

 事故の3カ月後、山形第四国民学校(現山形四小)で墜落機の展示があり、部品150点や重さ60キロのタイヤ、4メートルのプロペラ、ガソリンタンクなどが並んだ。山形市出身の故斎藤彰さん=埼玉県新座市=はここで山形に印が付いた地図を見た。妻静枝さん(88)は「ぼろぼろになった当時の山形新聞を保管していた。残すべき事実と思ったのでは」と語る。四小4年だった尾原正悦郎さん(86)=山形市あこや町3丁目=も展示を見た一人だ。「タイヤをくぐって遊んだよ」。無邪気な子どもたちをよそに、大人たちは恐怖感からかピリピリしていたと振り返る。

 B29が山形を標的にしていたかは分からない。しかし加藤さんが集めた事実を見ると、可能性は決して低くないと思わされる。あの日、日本に向かった325機のうち損失したのは14機だった。模擬原爆を落とし、放射線を浴びないよう急旋回の訓練をするほど緻密(ちみつ)な米軍が、同じ場所で3機も失うだろうか。不忘山のB29も、山形空港のオスプレイも、ここに来た理由があるように感じてならない。「宮城側に比べ、山形側では墜落の事実をあまり知られていない」と加藤さん。謎を謎のままにしておけば、忘れ去られていくばかりだ。=おわり

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