処理した不発弾、米軍投下の機雷か 戦時中、荷揚げ拠点の酒田港封鎖狙う?

2020/10/9 10:02

 酒田港の大浜ふ頭付近で見つかり、海上自衛隊が8日、爆破処理した千ポンド(454キロ)の不発弾は、第2次世界大戦時、酒田空襲で米軍が投下した機雷「MK26―36」の可能性が高いことが分かった。酒田港は終戦間際、国内の石炭荷揚げ拠点とされ、不発弾は、米軍が海上封鎖を目的に投下した機雷の一部とみられる。

 米軍の公文書や日本の資料などを分析し、戦史を研究する蜂谷敏さん(72)=天童市奈良沢=によると、米軍の作戦任務報告書に酒田空襲に関する記録が残っている。千ポンドのMK26―36を投下したとの記載があるのは1945(昭和20)年6月30日。太平洋のテニアン島の基地からB29爆撃機9機が飛来し、72発のMK26―36のほか、2千ポンドの機雷MK25を21発投下したとされる。同8月10日にも酒田空襲はあったが、艦載機による比較的小規模な爆弾と機銃掃射による攻撃で、蜂谷さんは今回の不発弾が6月30日の空襲で投下された機雷の可能性が高いと指摘する。

 酒田港は戦時中、当初は中国大陸からのコウリャン、大豆などを荷揚げする拠点だった。終戦間際は太平洋側の港湾が空襲や海上封鎖で使えなくなったことから、軍需上重要物資だった北海道からの石炭を荷揚げする役割を担うようになったという。

 6月30日の機雷では貨物船や作業船が沈没。死者2人を含む11人の死傷者が出ている。米軍は終戦後、戦略爆撃調査団が各地で空襲の成果を確認。その報告書で、こうした酒田港の役割の変化や、標的とした効果があったことなどが記録されているという。

写真やメモを見ながら戦中戦後を振り返る萬谷和子さん=酒田市

酒田空襲経験の萬谷さん「戦争終わっていなかった」

 「戦争は、まだ終わっていなかったんだな」。酒田市中町3丁目、会社役員萬谷(よろずや)和子さん(93)は酒田空襲を経験した一人。今回の不発弾発見、爆破処理を受けて75年前の記憶が鮮明によみがえり、感慨深げに思いを語った。

 戦況悪化とともに空襲の脅威は港町・酒田にも迫っていた。当時、灯火管制で街頭の明かりなどはなく、暗闇で足をぶつけ、親指をけがした。爪が生えそろったのは最近のこと。「この指を見ると戦争を思い出す」

 市内の石炭工場で輸送や事務に従事した。4人の妹が農村部に疎開する中、長女として父と家を守った。2人で自宅の庭に防空壕(ごう)を掘り、空襲警報が鳴るたび、逃げ込んだ。艦載機の空襲では操縦士の顔が見えるほど、米軍機が低空で迫ってきたことも。港の方で赤々と炎が上がっている光景が目に焼きついている。

 爆破処理が無事終わったことを受け、萬谷さんは「これまで、この爆弾でけがをした人がいなくて本当に良かった。若い人には戦争の体験をしてほしくない」と戦時中の写真に目をやった。

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