口元の餡、尊い思い 飢饉犠牲者を供養、新庄「まかどの地蔵」

2020/9/23 09:49
接引寺の「まかどの地蔵」。江戸時代に飢饉の犠牲者を供養するために安置された。口元に餡の跡が残る=新庄市下金沢町

 新庄市下金沢町の接引寺(しょういんじ)(花車(はなぐるま)英行住職)に彼岸の参拝者が石地蔵の口元に餡(あん)を付ける風習が残る。地蔵は江戸時代の飢饉(ききん)で命を落とした多くの人をしのんで建立され、餡は供物として受け継がれてきた。今年はコロナ禍の中での秋彼岸となったが、中日に当たる22日、地域の子どもたちが元気に過ごせるようにと餡を手にする市民の姿は変わらず見られた。

 少しひんやりした同日朝、境内に切り花などを手にした家族連れなどの姿がちらほら見られた。墓参りを終えた帰り際、参道入り口の「まかどの地蔵」の前で足を止める人は少なくない。手作りの餡を持参した高齢女性は「食べられなかった人のため」と言いながら、指先に乗せた餡をそっと地蔵の口元に運んだ。義父の墓参りのため30年ほど前から通う別の60代女性は「以前に比べてお供えは減ったようだ」としみじみ語る。地蔵を前に子どもたちの未来を願いながら手を合わせた。

 まかどの地蔵は元々、近くの別の場所にあり、そこが「曲がり角」だったため「まかど」の名で呼ばれるようになったと伝わる。江戸後期の大飢饉で飢え死にした人たちを供養するために建てられ、その後、多くの餓死者を埋葬した接引寺に移設された。

 接引寺27代目の花車住職(47)は「地蔵に食べさせるといった風習は他で聞いたことがない」と認める。春はぼた餅、秋はおはぎ、といったごちそうを口元に運ぶ風習について「なぜ、そうなったかは分からない」としながらも「貴重な砂糖を使った供物を用意するのは大変なこと」とし、食べ物に困らないようにと供養を続けてきた住民の強い願いに思いをはせた。

 彼岸の入り、中日、明けと3度の寺参りに合わせ、それぞれ餡団子、ぼた餅(おはぎ)、きな粉団子を用意する習わしもあったと言う。

 元市職員で最上地域史研究会の三浦和枝さん(70)=同市末広町=は、まかどの地蔵に関する風習を「もう一つの新庄まつり」と表現する。宝暦5(1755)年の凶作、飢饉で疲弊した市井の人たちを鼓舞するために始まった新庄まつりの一方で、飢えて亡くなった人に思いを寄せる、まかどの地蔵の存在を三浦さんは「新庄まつり同様、誇らしい」と語る。

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