
「山形県住みます芸人」三浦友加さんの母・礼子さん
山形で生まれ育ち、各界で活躍中の人物の親に子育てのツボを聞く「やまがた“親”物語」。今回は吉本興業の「山形県住みます芸人」として活動するお笑い芸人三浦友加さん(31)=鶴岡市出身=の母礼子さん(60)に話を聞いた。

-友加さんは3人きょうだいの末っ子。
「兄2人はやんちゃで、無我夢中で子育てをした。私は4姉妹だったし、男の子の考え方や行動が分からなくて、毎日が戦いだった。干してある靴を水路に投げたり、三輪車を田んぼに落としたり。綿パンとトレーナー、Tシャツが制服のようだった。そんなときに友加が生まれた。天使のようで、心が軽くなった」
-友加さんはどんな子どもだった?
「手のかからない子で、兄たちのやんちゃを中和してくれた。3人で一緒に遊んでいたけれどね。友加は何かと乗りがよかった。生まれながら笑いの神が付いていたと思うくらい、人をよく笑わせてくれた。海で写真を撮るとフラダンスのポーズをしてね。風呂上がりには3人で顔に汗止めパウダーを付けて笑わせたこともあった」
-子育てのモットーは。
「喜怒哀楽、特に愛情はストレートに表現する。悪いことをしたら怒るけれど、しつこいと思われるくらいぎゅっと抱き締めた。それから『和』を大切にしなさいと伝えてきた。誰とでも仲良くすること、約束を守ること、責任を果たすこと、うそをつかないこと。好き嫌いは関係なく誰とでも付き合うことも大切だし、一人の時間も大切。自分を磨いて成長するための時間だから、孤独を恐れないでと話してきた」
-調和も孤独も必要。
「人生には感動も大切だね。ハートがはじけるような感動の瞬間を味わい、涙を流してほしい。できればうれしい涙を。もちろん挫折も必要。人生に無駄はない。転ぶことは立ち上がるきっかけになるし、前を向けば道は開けると教えてきた。現状に満足せず、人の意見を聞いて学び、アクティブに出会いを求めると細胞から元気になれる」
-周囲を楽しませてきた友加さん。子どものころから芯が変わっていない。
「小さいころから顔はそのまんまだね。ふふ。小中学生の時に友達を連れてきてわいわい騒いでいるのを見ると『和』が生きているな、よかったなと思った。明るさは生きる力だよね。親が友人を集めてよくパーティーをしていたから友加はいろいろな大人と交わった。ものおじしない性格はそこからきているかな。たくましい母を見て、強く生きる姿を知ったのかも」
-お母さんと似ている。
「親の背中を見て子どもは育つのね。私の『ケセラセラ』という性格と似ている。なんとかなる、人生一度きりだから楽しいことをいっぱいやろうよ、と。私はテレビで映画『プリティ・ウーマン』を見てから俳優リチャード・ギアに夢中になって、英語を勉強して米国に行った。当時、友加は中学3年生。1週間家を空けたから、友加がご飯を作ったりしてくれた。思ったら行動するという母の後ろ姿を見て、やったもの勝ちだなと思ったと思う」

-お笑いへの道は幼少期から延びていた。
「芸人と言うよりはエンターテイナーかな。友加は場の雰囲気を読んで和ませてくれた。大学を辞めたいと言ってからは、本人が悩んで、放送作家になりたいとNSCに入った」 「私が昼のバラエティー番組が好きで、その時間はテレビの前で声を出して、げらげらと大笑いしていた。それを小さかった友加は後ろで見ていた。今、人を楽しませたい、笑顔を増やしたいと思って活動している原点なのかもしれない」
-友加さんに伝えたいことは。
「全国区の大物になってほしい。それから早く結婚して。あはは。こればかりは縁だけどね。友加が選んだ人なら間違いないと思っている」
【記者ひとこと】
三浦友加さんの明るさとパワーは礼子さん譲りだ。礼子さんはやりたいことは諦めないという有言実行の人。小さい友加さんを連れてジャズダンスを習ったし、今はフラダンスに夢中だ。川柳、絵手紙、ガーデニングなど多趣味。「人生にはウイットとユーモアが必要よ。でも好きなことをやれるのも家族の理解があるから。感謝している」とも語っていた。終始にぎやかな礼子さん。軽快な話術に、時間を忘れて引き込まれた。ふと、友加さんが「人生は一度きりだから」と芸人の道を進むと決めたと話していたことを思い出した。礼子さんの言葉と重なり、母娘の強いつながりを感じた。
みうら・ゆか

1982年鶴岡市生まれ。鶴岡北高卒、文化女子大(現・文化学園大)中退。吉本興業の芸能人育成学校「NSC東京」10期生として、2004年からテレビ番組に出演。11年に「山形県住みます芸人」として県内に移住。料理や手相占い、物まね、歌、工作といった多彩な特技を生かし、ラジオやテレビ番組で幅広く活躍する。東北芸術工科大特別講師、サッカーJ2・モンテディオ山形PRマネジャー、やまがた特命観光・つや姫大使など、さまざまな肩書を持つ。