わいわい子育て

やまがた“親”物語

“ナマドル”で人気のアイドルタレント佐藤唯さん(寒河江出身)の母・暁美さん

2010年8月23日掲載

 山形で生まれ育ち、各界で活躍中の人物の親に子育てのツボを聞く「やまがた“親”物語」。今回は山形弁を話す「ナマドル」として人気のアイドルタレント佐藤唯さん(24)=寒河江市出身=の母・暁美さん(52)に子ども時代のエピソードを教えてもらった。

 -テレビ番組で見る、飾らない素朴さが印象的。あったかい環境で育ったのだろうなと感じている。

 暁美さん 唯がまだ小さいころは、ひいおばあちゃん、祖父母、父母、姉、唯、弟の家族構成。祖父母が農家。夫は会社員、わたしは保育士と両親とも外で働き、土日に農業を手伝う環境だった。ところが唯が3歳の時に、祖母が57歳の若さで亡くなった。それまで祖母が子どもたちを見てくれていたが、それからはひいおばあちゃんと祖父が、子どもたちのご飯を作ったりと面倒を見てくれるようになった。

 -ひいおばあちゃん、おじいちゃんの影響を受けた?

 そう。ひいおばあちゃんは祖母が亡くなってから本当に一生懸命子どもたちの面倒を見てくれた。唯をおんぶして、わらべ歌を歌ったり、「とんと昔あったけど」と昔語りして聞かせたり。子どもたちを頭ごなしにしかるようなことは決してなく、ほわっと包み込むような育て方で、うまいなあと思っていた。唯は特に、誰かにしかられると、ひいおばあちゃんのところに行って「よしよし」してもらっていた。

 -ひいおばあちゃんっ子だった。

 ひいおばあちゃんは唯が小学校低学年のころ、脳梗塞(こうそく)で倒れた。唯はご飯を食べさせたり、風呂に入るときに手を貸したり、家族の中で誰よりも世話をした。その後も2度倒れ、1997年に亡くなった。葬式で弔辞を読んだのは唯。1番ひいおばあちゃんを大事にしていたからだ。

 -山形弁もひいおばあちゃん譲り?

 そういえば、ひいおばあちゃんが家族で1番なまっていたなあ。明治生まれだもんね。それでなまったのかな。わたしたち両親も結構なまっている。わたしは保育士だが、預かっている子どもたちに「おべどがねど、だめだ(覚えておかないとだめだ)」といった具合に話していて、お母さん方から「保育園に通ってからなまった」と言われることもある(笑)。

 ただ、姉だけは例外。子どものころ、言葉を話し始めた時から全然なまってなくて「どごの子どもだべー」って思ったぐらい。中学では運動会のアナウンスをしたり、周りからもアナウンサーや声優になれるねと言われていた。そんな姉と、ものすごくなまっている唯。対照的だった。

 -3人兄弟の真ん中。下に弟がいる。

 2歳ぐらいまで、唯はすごく手のかかる子どもだった。頑固で、哺乳(ほにゅう)瓶でミルクを飲ませるにも、一筋縄ではいかない。ところが弟が生まれたのをきっかけに、唯は全く手がかからなくなった。まるで“ミニママ”のように弟の面倒を見てくれた。

 -弟さんとはいつも一緒?

 子分のように弟を引き連れて外で遊んでいた。生き物が大好きで、カタツムリやイモリ、カエルを捕まえて飼っていた。トンボやセミ、イナゴ取りもした。小鳥やハムスターも飼った。唯が小学生のころから飼い始めて世話をした雑種の犬タスケは健在。今でも唯は実家に帰ってくるときにビーフジャーキーをお土産に持ってきたり、散歩に連れていったりと、かわいがっている。

 -外でわんぱくに遊んでいた。

 姉や弟はゲームもしていたのに、唯はあまりしなかった。いつも外遊び。一輪車にまたがって近所に回覧板を届けにいったり、竹馬に乗ったり。冬になると、軒下に積もった雪に穴を開けてかまくら作り。自分でいろいろ遊びを考え出していた。

 「畑を貸してほしい」と言ってきたこともある。小屋の裏手の荒れた場所なら使っていいよと言うと、弟と二人で“開墾”して、花の種をまいて育てていた。しょっちゅう畑に水やりに行っていたっけ。

 -家族の農作業を見ていてやりたくなったのだろうか。

 ジャガイモ掘りや豆もぎなど、畑で収穫作業を手伝っていたこともあって、土いじりは好きだったみたい。農家に嫁にいくこともあるかもしれないからって、わたしは唯が運転免許を取るときオートマ限定でなくてマニュアルを勧めた。

 -芸能界に入りたいという夢があったのでは。

 いやいや、とんでもない。小学校のころは引っ込み思案。まさか芸能界に入るとは思っていなかった。人前でしゃべったりする仕事はきょうだいの中でも一番向いていないと思っていた。素直だし、面倒見がいいから介護の仕事に就いたらいいんじゃないかな、と親は考えていたのだけれど。

 -何がきっかけで芸能界に?

 芸能界に入りたいと言い出したのは高校3年のとき。高校で服飾の勉強をして、ドレスを縫ったり生徒たち手作りのファッションショーに出たりして、華やかな世界にだんだんあこがれていったのでは。でも恥ずかしくて家族には言い出せなかったみたい。担任の先生に「進路が決まっていないのは唯さんだけですよ。東京に行ってスカウト受けるって言ってます」と言われて初めて知った。

 -びっくり?

 そりゃもう大反対。説得されて高校卒業後は仙台の専門学校に進んだが、こっそり今の事務所のオーディションを受けてグランプリになった。専門学校に入った時点であきらめていたと思ったらそうじゃなかった。それなら本人のあきらめがつくまでやらせよう。最後はそう考えて許した。

 -いまや山形を代表するアイドル。

 いつまでテレビに出させてもらえるかは分からないけどねえ、あはは。唯の誇れるところは素直なところ。勉強なんかは全然駄目なんだけど、あったかくて人がいい。

 -共働きの家庭で子育てする“こつ”は?

 夜は毎日夫とわたしと子どもたちみんなで一緒にお風呂に入っていた。小学校の高学年ぐらいまでずっと。寝るときには毎晩、夫と交代で絵本を読んであげた。そうやってコミュニケーションを取るようにしていた。ずっと一緒にいたわけじゃないから、かえってあれしろ、これしろと過干渉になることもなく、伸び伸びと育った。それが良かったのかな。

【記者ひとこと】

 保育士をしながら農業もやり、家事もやってきた暁美さん。子ども3人を育てる日々は大変だったのでは? と聞くと「そうだなあ、ひいおばあちゃんが倒れたときには、食事は立ったまま、冬はこたつに入る暇もなかったよ」。だが「苦労を語る」なんて雰囲気はみじんもない。忙しい中でも親子で風呂に入ったり読み聞かせをしたりと、子どもたちにたっぷり愛情を注ぎ、毎日を生き生きと暮らしている様子が伝わってきた。自然体でありのままを受け入れる姿勢に、母親としての強さとしなやかさを感じた。

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