山形の福島っ子[6] 新たな命、家族一緒に
2014年03月10日
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新たに生まれる家族を迎えるため郡山市に帰る(左から)中村天海さん、天結さん、美紀さん、天寧ちゃん=山形市下条町3丁目
母美紀さん(38)次女天結(あゆう)さん(6)三女天寧(あまね)ちゃん(4)と4人で震災のあった2011年の夏に避難した。明るく前向きな性格の長女は「転校は嫌じゃなかったよ」と振り返る。 原発事故で生活は一変していた。季節が夏になっても長袖、長ズボンにマスクをして通学した。スカートをはきたいと母にせがんだ。「今思えば別にズボンでいいのに」。当時の気持ちをよく覚えていない。 *将来、復興を支援 同年6月、美紀さんは避難することを決めた。娘たちを安心できる場所で生活させたかった。妻の決心を夫亮介さん(40)は尊重した。「友達を増やしにいこう」。娘たちにそう告げた。 「友達のおかげですぐ溶け込めたよ」と天海さん。学校生活は充実していた。調理クラブに入り、活動のたびにおなかいっぱいになって下校した。4年生から集会委員となり、行事の準備や進行に携わった。委員長になりたいと思うほどやりがいを感じた。友達にも立候補を勧められたが手を上げなかった。「委員長が転校したらみんな困るでしょ」 「私はいつか郡山に帰る」。そう思いながら山形で生活してきた。 将来、同窓会の幹事になりそうな友達に連絡先を渡そうと思っている。「これまでのように遊んだり話したりできなくなるけど、誘ってほしいな」と恥ずかしそうに笑う。 将来やりたいことがある。学校行事で、復興の役に立ちたいと発表した。仮設住宅に高齢者と子どもの交流の場をつくりたい。住宅メーカーに勤める父の仕事から想像した。避難者支援に携わる母の背中も見てきた。「ママは何もないところから始めた。私にもきっと何かできる」 3年前のあの日。家中のガラスが割れ、毛布にくるまって震えたことを覚えている。「私も当事者。だから福島の役に立ちたい」。まだ小学生。何ができるか分からない。でも前向きに将来を見据えている。 *母親の声行政に 母子避難の当事者として、11年秋に「山形避難者母の会」を立ち上げ、中心的な役割を担い母親の声を行政に伝えてきた美紀さん。出産を控え、郡山に帰ることを決めた。「新たな命を家族一緒に迎えたい」。自然な選択だった。 不安はある。山形と比べれば原発事故発生後のリスクは高い。それでも「ほっとしています」。安心を求めて避難したが、先の見えない生活が続いた。これからは家族の将来を考えられる。 例えば放射能汚染を懸念する声が農業の復興を妨げているという意見がある。どうすれば安心を得られるか。行政ばかりではなく、子を持つ母親を交えた議論が必要だと考える。「たくさんの話し合いの先に、私たちが取り戻したい福島があるはず」。そう信じている。 郡山に帰ってからも山形の「母の会」の代表を続ける。母子避難の経験者として、同じ悩みを抱える福島出身の母親たちを支え続けていくつもりだ。 (震災問題取材班)
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