川尻さん、もうすぐ2度目の新学期 高校教師、本県から気仙沼へ
2013年03月22日
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岩手県一関市の自宅アパートで「できることは何でもやりたい」と語る川尻宏一さん
川尻さんは兵庫県伊丹市出身。地元の公立高校で英語を教えていたが、縁があって2008年4月から本県の教員になった。11年3月11日の震災発生時は勤務先の米沢商業高で入試の採点中だったという。 宮城県石巻市に知人がいたことから、すぐ現地に向かった。到着したのは翌12日早朝。「ご遺体があちこちにあったが、手を合わせることしかできなかった」と振り返る。以後、週末を利用して支援物資を届ける被災地通いが始まった。 そんな中、宮城県教委から臨時教員の誘いを受け、昨年4月から気仙沼西高で教鞭(きょうべん)を執ることになる。「一見、普通だが、何かを抱えていると感じる生徒が複数いた。家を流され仮設住宅に入っていたり、親が仕事を失ったり。『弟や妹が精神的に不安定なので、自分が頑張らなきゃ』と背負い込んでいる子もいた」 昨年12月7日夕方に発生した震度5弱の地震では宮城県に津波警報が出され、緊張が走った。当時、部活動で200人ほどが学校に残っていたが、生徒たちはパニックになり、泣きじゃくる子も。「慰めている子自身も涙目になっていた。以前の生活に戻ったように見えても、余震がくると思い出す。心の傷は深いと、目に見えて分かった」 なぜ、職場を変えてまで被災地の教壇に立つのか。「中学2年のとき、自分も阪神大震災を経験し、多くの人に助けてもらった。恩返ししたいという気持ちが、より強いのかも」 勤務先は気仙沼市だが、自宅は岩手県一関市のアパートだ。地元に住むよう上司から勧められたが、被災した人たちの選択肢を狭めたくないと、自らは片道1時間の距離を車で通う。 教師として生徒をサポートする一方で、ボランティア団体の代表として復興支援にも継続的に取り組んでいる。団体名は「Step By Step(いっぽずつ)」。「無理をするべからず」をモットーに、山形の仲間らと共に、石巻市や女川町、南三陸町で家屋の修繕や小屋作りに打ち込んできた。 「被災地の子供たちのため、できることは何でもやる。どんなに忙しくても時間を取って、しっかり生徒と向き合いたい。ボランティアも10年は続けたい」。自分の力が必要とされなくなるまで。被災地に「本当の春」が訪れるまで。
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