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やまがた観光復興元年

第1部・逆境を乗り越える[5] 経営者の決断・上山

2014/1/7 12:38
旅館経営から転身し、手打ちそば屋を営む石山正明さん。地元産の食材にこだわったメニューは人気だ=上山市狸森

 雪に覆われた上山市山元地区。山あいを走る国道348号沿いのそば屋「遊行庵」(ゆぎょうあん)の静かな店内に、「とんとん」とそばを打つ音が響く。「そば粉だけでなく、店で使う食材は全て地元の物。この干し柿の天ぷら、そこの木から柿を取って作ったんです」。店主の石山正明さん(63)が、そっと庭先に指を向けた。

 石山さんは2011年10月まで、同市河崎地区で「いしやま旅館」を経営していた。祖父が1954(昭和29)年に開業した温泉宿の3代目だった。かつて農家などの湯治客を中心ににぎわい、冬場は県外から訪れるスキー客の宿として親しまれた。72年に改装、計約80人収容の客室は活気にあふれ、年商は1億円に達した。パート数人の家庭的な営業形態で、食事のボリュームがいいと評判だった。

 だがバブルがはじけ景気が低迷すると次第に客足は落ちた。生活スタイルの変化とともに湯治客も減少した。そして2011年3月11日の東日本大震災。旅館業から手を引くことを決めた。同時にそれは、そば屋経営を決断するきっかけとなった。

 上山市によると、かみのやま温泉の利用者数は1992年の75万人をピークに下降、2012年は36万人にとどまった。温泉街の旅館・ホテルの数は、現在22軒とピーク時の半分以下に減少した。石山正明さんの旅館も2000年以降は「良い時の3分の1程度の売り上げ」に落ち込んだ。

東日本大震災の7カ月後に閉館した「いしやま旅館」。かつては湯治客を中心ににぎわった=上山市河崎3丁目

■震災追い打ち

 東日本大震災は、そんな状況の中で起きた。「3月11日を境に予約は軒並みキャンセルとなった。5月の連休の予約もなくなった」。館内の防火設備も更新が必要な時期だった。「費用がかさむ上、東京電力福島第1原発事故の影響を考えると、これから観光客が増える見込みはない」。先は見えなかった。

 肉体的な疲労も蓄積していた。自身と妻、数人のパートと限られた人員で、24時間態勢で宿泊客の安全に気を使う日々。フロント事務所にマットレスを敷いて寝泊まりしていた。「身が持たなかった」。体調を崩し、震災から4カ月後に閉館を決断。その年の10月に営業をやめた。

 以降、新たな道を進むべく職業安定所に通った。しかし、60歳を過ぎた身に最適な仕事は見つからなかった。そんな時、込み上げてきたのが「そば屋をしたい」との思いだった。

 2000年に入り、「旅館として何か特徴がなければ生き残ってはいけない」と、宿泊客を対象にしたそば打ち体験を始めていた。そば屋を食べ歩きしながら独学で打ち方を習得し、ロビーの一角に専用の部屋を設けて指導。客が打ったそばを夕食で提供するなど新たな試みはリピーターを獲得するほど好評だった。

 市内外で物件を探した結果、最終的に知人の紹介で上山市狸森の空き家だった民家を選んだ。自宅兼店舗に改修し、12年6月にそば屋をオープン。標高600メートルに位置し、ソバ産地として知られる地元のそば粉を活用、天ぷらで提供する野菜などの食材も地元の農家から調達している。上山の食の豊かさを前面に打ち出したメニューは、団塊の世代に人気だ。

■強いこだわり

 「遊行庵」という店名には強いこだわりがある。鎌倉時代の僧侶・一遍上人にちなんで名付けた。「漢字を置き換えると“湯業庵”にもなる。お湯の仕事をやっていたという意味を込めた」。温泉宿の経営者という過去を胸に「この地区は農作物に恵まれている。たくさんある耕作放棄地を有効活用し、珍しい野菜を栽培して住民と一緒に売り出せないか。今はそれを考えている」。再スタートを切った地で新たな構想を描く。

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