【漆の実のみのる国】 人間鷹山 ありのままに

 「漆の実のみのる国」は、米沢藩の中興の祖、上杉鷹山の伝記小説である。鷹山公と書かなければ米沢の人に叱(しか)られそうだが、すでに在世のころから、破綻(はたん)に瀕(ひん)した藩を救った明君(めいくん)として名高かった。家臣の甘糟継成(あまかすつぐしげ)が大著「鷹山公偉蹟録」の草(そう)を起こしたのは安政元(1854)年3月、鷹山公三十三年忌の夜だったという。継成は若冠23歳だった。

 鷹山という殿様は、米沢のみならず全国に明君として知られ、在世中から2世紀以上たったこんにちに至るまで、忘れられることはなかった。そのような偉人と正面から向きあう史伝を書くことは、小説家としては覚悟のいることである。

 藤沢周平さんは城山三郎さんとの対談「日本の美しい心」で、「歴史については、いつもちょっと待てよ、と思って斜に構えて見ているところがあるんです。史実と言われるものが、はたして本当のことなのか」といい、執筆中だった「漆の実のみのる国」について、「世に言う鷹山名君説はどうも少し違うんじゃないかと思っているんですよ。かなり美化されている。で、そういうものをいっぺん取りはらって、出来る限りありのままの鷹山公を書いてみたいと思っているんです」と語っている。

 ありのままの鷹山公とは、なんだろうか。小説家はその人の現身(うつしみ)を見ることも、声をきくこともできない。文献をしらべ、当時の政治、社会、経済、世態、人情を研究して、最後は想像によって書かなければならない。ここで語られている「ありのまま」とは、明君という冠をとった人間鷹山を書こうということだろう。

 「漆の実のみのる国」という題名が、すでに「ありのままの鷹山公」の姿を予告している。小説に描かれた鷹山は、明敏で誠実で、その時代には珍しく領民の苦しい生活に想像力がおよぶ心やさしい君主だが、政治家としては失敗した。鷹山の施策により、米沢の貧困が解消されたわけではなかった。

 領内に100万本の漆の木が植えられ、その実によって国が豊かに潤うというのは、鷹山お国入り前後に、藩政改革の旗手となった竹俣(たけのまた)当綱(まさつな)が発案した壮大な計画だった。財政の縮少によってではなく、産業の振興によって米沢藩は救われるはずだった。それは見果てぬ夢にすぎなかったのだが、夢によって人は勇気づけられ、希望を抱くことができる。

 小説の中で鷹山は、改革が頓挫し、心がくじけそうになると、100万本の漆の木を想(おも)い、気をとりなおす。「ありのままの鷹山公」とは、空の彼方(かなた)、本の中の人ではなく、わたしたちのすぐ前を歩いている人の姿ということだろう。政治には、というよりも、人間の暮らしには、見果てぬ夢が必要だと作者はいっているらしい。

 「漆の実のみのる国」は、「文芸春秋」の平成6(1994)年1月号から連載された。その年の末から作者は肝炎を発症して、3年後の1月、69歳で逝去された。作品は1回20枚ずつ平成8(1996)年4月号まで連載されたが、以後中断されたままだった。最後に編集者がうけとった原稿は6枚分だったという。それが絶筆となった。

 「漆の実のみのる国」は、悠々たる大河小説の趣をただよわせて作品がはじまっている。

 藩主上杉重定の寵臣(ちょうしん)森利真を、江戸家老竹俣当綱たちが誅殺(ちゅうさつ)するまでに、10回分、およそ作品全体の6分の1が費され、まだ鷹山は登場していない。作家の胸の内をおしはかることはできないが、あるいは数年がかりの数巻におよぶ大河小説を構想しておられたのだろうか。

 作家が亡くなってからのちにこの作品を読んだとき、病気のことを知っていたせいかもしれないが、回をおうごとに、さきを急ぐ筆勢が感じられて、胸をつかれる思いをしたことがあった。作品の終章に近く、いったん職を辞して藩政から離れた莅戸(のぞき)善政が、藩の危機に対処すべくふたたび登用される。すでに老齢にさしかかった善政に、鷹山がこんな言葉をかける。

 「だが近ごろ、ちと働きすぎではないのか。そなたはいまや藩の柱だ。自重して身体をいたわることも考えねばならんぞ」

 善政はこう答える。

 「やらねばならぬことは山積し、わが齢は限られておりまする。おそらくはその思いが知らず知らず事をいそがせるのでござりましょう」

 この回の原稿が、まとまった原稿としては最後で、あとは6枚の絶筆を残すのみである。藤沢周平さんはどのような思いで、この会話を書かれたのだろうか。

(作家、山形市)

 【漆の実のみのる国】米沢藩9代藩主で、中興の名君・上杉治憲(鷹山)の藩政改革への取り組みを描いた長編。鷹山は窮乏の藩を立て直すため、家臣竹俣当綱、莅戸善政らとともに、倹約、殖産興業を柱とする改革に苦闘する。「文芸春秋」への連載は、体調不良のため1996年春に中断。翌年1月の作者死去後、結末部分として執筆していた6枚の存在が明らかになった。

(2007年12月6日 山形新聞掲載)

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