【友情と信頼】一度だけの選挙演説

 藤沢周平さんは思想的にどんな人なのだろう-。作品を読み始めて以来、ずっと抱いてきた疑問である。市井もので庶民を描いたかと思うと下級武士とはいえ、れっきとした士分の主人公を描いている。ほとんどはそうした身分制度の中の下層の人々を好んで扱っているが、そうかといって藤沢さんが革新的な思想の持ち主とせっかちに断定することはできない。

 一つの手掛かりがあった。「周平独言」(山形グラフ)に「雪のある風景」と題するエッセーがある。この中で藤沢さんは、友人が衆議院議員選挙に立候補し、その選挙演説にひっぱり出されたことを紹介している。後にも先にも、藤沢さんが選挙の応援演説に立ったのはこの時限りである。

 「ふだん私は、こういうことには慎重な方である。それは、ほかのひとはいざ知らず、非力な作家である私など、特定のイデオロギーに縛られたら一行も物を書けなくなるだろうという気がするからである。また政治家の人間のとらえ方と、作家の人間を見る眼は違うという考えもある」と書いている。

 作家と政治家は基本的に仕事の次元が異なる、とも述べている。イデオロギー、あるいは政治に対して慎重に一定の距離を置こうとする姿勢がうかがえるが、この一線を越えさせたのは何だったのだろうか。

 前回、共産党の元県議小竹輝弥さん(68)と藤沢さんとの友情について紹介した。実は、この衆議院議員選挙というのは、小竹さんが立候補した時の話である。なりたくてもなれなかった教師へのこだわり。二人の友情を強いものにしていったのは、共有する「悔しさ」みたいなものがあった。藤沢さんが作家として名を成し、小竹さんが政治家として国政レベルの選挙に打って出るまでになっても、心の中で二人を結びつける「何か」があったのは確かである。

 前述の「周平独言」の「雪のある風景」で藤沢さんはこんなことを述べている。「作家にとって、人間は善と悪、高貴と下劣、美と醜をあわせもつ小箱である。(略)小説を書くということは、この小箱の鍵をあけて、人間存在という一個の闇、弁質のかたまりを手探りする作業にほかならない。(略)政治家は法律をつくり、これを行政に移して運用させ、人々の腹を満たし、財布の中味を増やそうとする。つまり人間の現実的な生活にしあわせをもたらすのが仕事である。少なくともそれを仕事の目的としている」。

 そして、小竹さんは「人間の政治に対するナイーブな願望を、政治の上にいかそうと懸命であるだけでなく、彼自身政治とはそうしたものでありたいと願っている、と私には見える」とし、「政治に対する初心」がある、とも書いている。政治家として尊敬できる人間であり、「彼の中には、彼を知ってから二十数年、一貫して変わらない信頼できるものがある」と記す。

 「藤沢さんは、人間を見る。具体的にその人を見て、何であるかをつかんでいく。私を見て共産党というものを見ていたのではないだろうか」と小竹さん。つまりは、教職を去ってから共有した「悔しさ」みたいなものを通して、二人の間に一貫して変わらない信頼できるもの、が生まれていく。あるいは、文房具を売りに来た小竹さんに対して抱いた「うしろめたさ」も含まれていよう。人間・小竹輝弥へのそうしたもろもろの思いが、それまで慎重だったイデオロギーや政治への一線をこの時、越えさせたといえる。

 結果的に、その先に政党があったということだろう。

 藤沢さんの現実直視の姿勢は、青年教師時代の茂三さんへの手紙に既に現れている。『論語』微子篇の「鳥獣はともに群れを同じくすべからず」の中でも、孔子の求めたものは現実を貫流するモラルであり、現実の中にかくされている真実である、と説いている。現実の中に理想を求める人がいれば、そしてその人が長年の友情と信頼で結ばれている人であればなおのこと、藤沢さんは支援を惜しむことを潔しとしなかったのではないか。

 結局、小竹さんは衆院選で落選する。「周平独言」の「雪のある風景」は、次のような一文で終わる。「郷里はいま冬で、彼はその雪のある風景の中に立っている。だがその冬は、そんなに長い冬ではないだろうという気がするのである」。あくまでも温かい眼差しがそこにはある。

続・藤沢周平と庄内 はるかなる藤沢周平

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