【二十二歳の教育論】教師は労働者だ

「教師は労働者である」と前回の「茂三さんへの手紙」で小菅留治さん(後の藤沢周平さん)は書いている。そして、およそ四十年後、『作文と教育』(昭和六三年九月号)の、「聖なる部分」というエッセーで「かつて私は二年間教職にいた経験があり、そのときの多忙はほとんど肉体労働にひとしいものだった。聖職者などという言葉はいたずらに反感をそそるだけで、私は教師は労働者だと思った」と書いている。

 青年教師だったころに、親友の小野寺茂三さんへの私信で述べていることと、四十年の歳月を経て不特定多数を対象にしたエッセーで書いていることとは見事に一致するのである。小菅留治さんの誠実な人間性というべきか、作家・藤沢周平としての一貫性というベきか。

 その「労働者」という認識がどのようなものであったか、少し触れてみたい。

 「教師は労働者だ。その労働に正当な評価と報酬を堂々と要求してよい。もしも労働者であるという教師に倫理的な不安を感じたり、一段いやしいものと感ずる人があるとすれば、それは労働-LABOURの何たることを解しないばかりでなく、倫理の何たるかをも理解していない人だろう。働かないものこそ軽蔑されてよい。教師はその生徒を働くことを喜び、労働を尊敬する人として教育すべきである」と茂三さんへの手紙で小菅先生は強調している。

 このころ、学校のグラウンド整備に生徒の力を借りたが、サボッている生徒に小菅先生はゲンコツを一つくれた、というエピソードが残っている。労働を尊敬する人として教育しようという姿勢のなせる行為だったのだろうか。

 教師は労働者-の認識はしかし、後年になって変わってくる。エッセー集『ふるさとへ廻る六部は』(新潮社)に収録されている「聖なる部分」(初出『作文と教育』)の一部を要約すると、次のようになる。

 横暴で独裁的な喜治郎先生という人がいて、生徒に気合を入れる怒号が校内に響かない日はなかった。生徒にも、先生にも敬遠されていた。その先生が、卒業が迫ってくると、乗り気でなかった私(小菅少年)を尻目に上の教育が受けられるよう、強引に受験の手続きをしてくれたというのだ。

 「喜治郎先生の場合のような、先生の側のこの無償の情熱。そして、生徒である私に、いまなお残る尋常でない懐かしさは何なのだろうか。多分教育とは、どのような形であれ、生徒の心と身体をはぐくむという運命からのがれられない職業なのだろう。そこに教師という職業の、ほかの職業とは異なる聖なる部分があるように思われる」(「聖なる部分」)。

 恐らくこの認識、考え方には教壇を離れて四十年、教え子たちとのその後の交流や自分の来し方を振り返ってみての、感慨に近いものがあるように思える。教える側と教えられる側の双方の視点がここにはあり、今の教育の危機を考えた時、教育現場における「聖なる部分」の認識の欠如を憂慮したのではないか。

 いろいろ詮索しながら、だいぶ肩苦しい話になったが、若き日の小菅先生がいつも謹厳実直、みけんに深いシワ、というような生活をしていたわけではないようだ。

 藤沢さんは後年、鶴岡市にある荘内松柏会の「松柏」という会報(平成二年四月号)に「『泥亀漫想』の時代-高山正雄さんと私-」と題する一文を寄せているが、この中で湯田川温泉の朝帰りの話を紹介している。

 高山さんから学校に電話があって、湯田川温泉の鷺見屋に来られるか、という。校長先生からすぐ行くように、といわれ旅館に向かった。黄金村の顔見知りの人たちがおり、もうかなり酒が回っていた。学校も生徒もすっかり忘れ、湯田川芸者のお酌でいい気分で飲んでいるうちに酔いつぶれ、寝てしまったらしい。

 「目がさめると朝で、私はワイシャツにズボン姿で寝ていて、すぐそばの布団から高山さんのいがくり頭がのぞいている。驚いて起き上がると、ネクタイをしめ直し、松田さん(鷺見屋のご主人)に挨拶して外に出ると、まだ人影はまばらな道を走って学校に戻った。泥亀先生(高山さん)の酒とは違い、私のは、おしまいのところが脱兎(だっと)の如(ごと)くになった訳で、しまりのない話だった」と書いている。

 一面、のんびりした時代でもあった。

続・藤沢周平と庄内 はるかなる藤沢周平

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