【地霊人傑】作家を育てた風土

 その土地、土地には霊があり、その霊が人を育てる、という地霊人傑。「耕心」(東北振興研修所刊)九月号で愛媛県師友会の近藤美佐子会長が庄内の豊かな自然とそこに住む人々の純真な心を、この言葉で表現している。

 この霊というのは、その地の自然や歴史、人々の気風や風格を内包した伝統的で文化的な雰囲気とでもいえようか。さらにはそこに宗教的な色彩を帯びることもあろう。

 庄内平野のゆったりした風景には、この霊の宿る地という言葉がすんなり当てはまるように思える。そして、その土地こそが作家・藤沢周平を育てたのである。

 庄内的という時、郷土史家・堀司朗さんは藤沢さんの二つの作品に注目するという。一つは『義民が駆ける』。もう一つは『春秋山伏記』である。

 前者は天保時代に荘内藩を襲った国替え騒動である。世に言う三方領地替えである。出羽庄内の酒井家を越後長岡へ、長岡牧野家を武蔵川越へ、そして川越松平家を庄内へ、という酒井家にとっては石高が半減する割の合わない転封であった。

 「百姓といえども二君に仕えず」と、庄内の農民が立ち上がり、江戸に上って老中に駕籠訴(かごそ)し、ついには幕命を覆した。そこには、自分たちの土地を守り、暮らしを守るという百姓たちの保守的でしたたかな計算も働いていた、と藤沢さんは作品の中で分析している。

 『春秋山伏記』は、主人公の大鷲(しゅう)坊という山伏が、機転の効いた活躍で住民の悩みやトラブル、事件を解決していく。村人の生活がいきいきと描かれ、素朴で快活な、それでいてしぶとく、したたかな百姓の側面も活写している。

 二作に共通しているのは、勤勉さときちょうめんさ、普段はものを言わぬがいざとなれば力を合わせ事に立ち向かう反骨精神、先祖伝来の土地を守り、伝統を守っていこうとする姿勢、そして何より、明るく素朴でしたたかな百姓の姿が描かれていることである。換言すれば、庄内に根づく庶民の生きざまそのものである。

 特に、『春秋山伏記』には、自由で伸び伸びした村人の生活が描かれている。「この百姓の姿というのは、極めて庄内的。藤沢さんが村人と一緒にいる、という気さえしてくる。藤沢さん自身の農の心、土着性が最もよく表れている作品ではないか」と堀さんは指摘する。

 山伏を主人公にすること自体、作家が羽黒山のある庄内を古里に持つ、ということの裏返しである。山伏の「聖と俗」の俗の部分を大きく取り出してみせ、村人の生活に入り込ませる。藤沢さんは『春秋山伏記』に古里讃歌を託したのではないか。

 『義民が駆ける』でも、百姓の心の動きが手に取るように描かれている。史実に基づいているとはいっても、こうした農民の心の描写は作家の想像の分野に入る。農の心がなければ、駕籠訴にまで至る経緯は描き切れなかったであろう。土着性と農の心があって初めて、この二つの作品は生まれてくるのである。

 土着性と農の心がこうした作品を生み出した一方で、次のようなことも藤沢さんは述べている。

 「例えば私は去年、江戸中期の碩学(せきがく)新井白石を主人公にした『市塵』という本を出した。しかし私は白石の著作物である『藩翰譜(はんかんぷ)』を小説の資料として読む事はあっても、今だかつて白石に興味を持って勉強したという事は一度もないのである。それにもかかわらず、新しく歴史小説の題材を決める時になって、中身はともあれ、ふと儒学者である新井白石という風に気持ちが動くということは、高山(正雄)さんや犬塚(又太郎)先生にお会いしたという事、あるいは過去さまざまなお話を聞いたという事実を抜きにしては、何とも説明がつかない事の様に思われるのである」(「松柏」平成二年)。

 「荘内松柏会」の農の心と学の心(論語の勉強)については既に書いた。十六歳で入会した小菅少年(藤沢さん)は、同会とのつながりを亡くなるまで続けることになる。この一文を読むと、『市塵』を書かせたのは、まさに庄内に残る学の心、といえよう。

 第1部の「海坂藩まぼろし」、第2部の「ふるさと庄内」、第3部の「はるかなる藤沢周平」から導き出せるのは、一人の作家が生き、歩いた風景、出会った親友、知人、勉強した事柄は、どこかで作家の血となり肉となって作品に反映されており、そこから大きく踏み外れることはないということである。その意味で、藤沢さんはやはり庄内人以外の何者でもなかったという、実に明快な結論が得られるのである。

続・藤沢周平と庄内 はるかなる藤沢周平

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