【「三」へのこだわり】資料と遊び

 鶴岡市三瀬(さんぜ)を舞台にした『三年目』という作品は、地形はむろん家並みの一軒一軒を史実に基づいて描いた、藤沢周平さんにしては毛色の変わった小説である。昭和五十年、藤沢さんは善宝寺、加茂、油戸などを舞台にした『龍を見た男』の取材で海岸沿いを訪れたが、三瀬まで足を延ばしたらしい。いわば、『龍を…』の姉妹編とでもいえようか。小説の完成度からいえば、むしろ『三年目』を挙げるファンも多い。

 その『三年目』という作品だが、『豊浦地域史資料』(正、続二編、小野泰編、豊浦地域史資料刊行会)を傍らに置いて読めば、作品の雰囲気をより深く楽しむことができる。二編とも平成に入って刊行されたが、恐らく藤沢さんは三瀬を訪れた時に、小野さんから十分な資料と知識を仕入れていたと思われる。

坂本屋、秋田屋が並ぶ三瀬の通り
坂本屋、秋田屋が並ぶ三瀬の通り
 茶屋の「常磐屋」で働く「おはる」は、鶴岡から江戸に向かう途中に腹病みで常磐屋に三晩泊まった「清助」を待っている。清助は「三年待ってくれ」といって江戸に向かった。おはるはその言葉を信じている。作品は、その三年目に当たる日の暮れ六ツ(午後六時)ごろの描写で始まる。情景描写、心理描写は絶妙である。戻ってきた清助は「もう三年待ってくれ」という。信じる一途な女のあやうさ、もろさ。心情の見えない男の不気味さ。

 作品には「三」へのこだわりがある。舞台は三瀬、迎えにくるという約束の三年目、清助が腹病みで泊まった運命の出会いの三晩、そして非情ともとれる「もう三年待ってくれ」という清助の言葉。心情の見える血の通った登場人物も三人である。藤沢さんの作中での“遊び”が見える作品でもある。

 作品に出てくる「常磐屋」、その並びの「秋田屋」、その向かいの「坂田屋」、西隣の「京夫の石塚五郎助の店」、常磐屋の先、つまり西寄りの「越後屋」、その先の船宿「岩崎屋」、「三島屋」、「坂本屋」、それに遊女屋の「長嘉楼」は、地域に残る安永八(一七七九)年の豊浦三瀬絵図に代々伝わる名前で描かれている。

 それによると、坂田屋は伊関仁兵衛、秋田屋は石倉仁右エ門、常磐屋は石塚弥左エ門、石塚五郎助は明治になって改名した石塚権右エ門、越後屋は白旗吉右エ門、岩崎屋は石塚新十郎、三島屋は佐々木九右衛門、坂本屋は石塚才吉、長嘉楼は加藤嘉兵衛である。

 屋号も名前も代々受け継がれ、作中の屋号は絵図にぴったりなのである。

 海辺の宿命で、何度か大火に遭った三瀬地区は、その都度、家の配置が少しずつ変わっているが、それでも安永年間の絵図にたどり着くことができる。

 作品には、時代の雰囲気を伝えるものとして馬がよく出てくる。

「いま宿場に着いたばかりにみえる旅支度の人間や、馬を曳いて馬宿に行く馬喰(ばくろう)らしい男などが、影絵のように動いていた」、さらには「空馬を曳いた馬子(まご)が、莨(たばこ)をふかしながら通りすぎたあと、通りはしんとしてしまった」など。

 三瀬は古くから宿駅として栄えた町である。旅籠には厩舎があった。

 宿駅の雰囲気を伝える店として、作品の冒頭に「京夫の石塚五郎助の店」というくだりが出てくる。京夫(ごうぶ)と藤沢さんの原稿にも読み仮名が振ってある。いろいろ辞典で調べたが、この文字でこのように読ませるのはない。そこで、手掛かりとなるのは石塚五郎助という人、あるいは家柄である。

『豊浦地域史資料』によると、「宿駅」の記述の中に駅役人としてこの五郎助さんが出ている。人馬継ぎ立ての取り決めに名を連ねているのである。さらに、『続・豊浦地域史資料』では蝦夷地郷夫(ごうふ)ということでこの名がある。江戸末期、荘内藩は万延元(一八六〇)年に幕府から西蝦夷地を拝領し、その後十年近く北方警備と開拓に当たっている。領民も蝦夷に渡り、郷夫(労役をする人)として開拓や漁業に従事した。三瀬からも当時、八人が蝦夷地に行っている。一行の親方が石塚五郎助であった。 「京夫」は「きょうふ」として大日本国語辞典(小学館)に載っている。「京上役(きょうじょうやく)」のことで、「中世、領主などが庄民に課した夫役の一つ。庄民を上洛上京させて雑役に服させた」とある。

 五郎助さんは、もともとはそうした家柄で、江戸期になってから人足や馬方の手配師のようなことをしたのではないか。京夫と郷夫が重複したような印象なのである。

続・藤沢周平と庄内 ふるさと庄内

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