昨年に続き、山形花笠まつりの山車に上がらせていただいた。今年も山車の上で大いに踊り、またまた3日後に筋肉痛が出たほどだった。今年は何年も踊れなかった渡辺えりと花笠を踊ろう会「夢見る力」のメンバーが山車の後について踊ってくれた。何カ月も練習したかいがあり、同級生もみんな切れの良い踊りを披露してくれた。80歳近くになってもはつらつと踊るいとこにも感心した。コロナ禍にたまったストレスも発散でき、祭りの楽しさをしみじみ感じた。やはり1人では楽しくない。仲間がいてこそのお祭りだ。
友人たちが企画してくれた打ち上げでは、真っ赤なドレスに着替えて数曲歌った。友人の孫が空手の芸を見せてくれたり、リーダーの五十嵐靖彦さんが仲間とズンバを踊ったり、参加者みんながあきれるくらいの盛り上がりだった。お笑いコンビ「テツandトモ」の2人も参加してくれ、3人でコント風のおしゃべりをしたのも楽しかった。
山形市出身のトモ(石沢智幸)さんは学生の頃、劇団3〇〇(さんじゅうまる)の公演に出演したことがあった。山形市民会館でも上演し、共演した宇梶剛士さんらと馬見ケ崎河原で芋煮会をした仲で、今も交流がある。役者から漫才師に転向したのを見つけたのは、中村勘三郎さんだった。「面白い漫才をやってるから早くテレビを付けろ」と電話があり、付けたら石沢君だったのでびっくりしたのを覚えている。
打ち上げ後も、「テツandトモ」とお笑いコンビ「ロケット団」の三浦昌朗さんと食事会で盛り上がった。コロナ前は時々、橋本マナミさん、ウド鈴木さん、白崎映美さんら山形県人会で集まって楽しく過ごしていたが、コロナ禍で会うこともできずにいた。
8月7、8の両日は山形西高生の演劇ワークショップ。久しぶりに母校で演劇部員たちと触れ合うことができた。27歳の時に書き、岸田戯曲賞を受賞した「ゲゲゲのげ―逢魔が時に揺れるブランコ」のワンシーンを朗読して演じるという内容だったが、みんな熱心に食らい付いてくれた。
2日目はやまぎん県民ホールで行った。山形市出身の俳優和田琢磨さんが、主人公マキオの父親若月源治の役を演じてくださり、深いシーンになった。一日1時間半の練習という無謀なスケジュールだったのに同ホールで発表ができた。
「就職しても演劇を続ける」と語った部員もいた。近い将来、いつか山形で芝居を作り、逆に東京に持っていくという私の夢がかなうのではないかと希望を持った。山形ロケの映画も作りたいと思っていたのに時間がない。やりたいことはたくさんある。しかし金がない。宮沢賢治には金持ちの父親がいて、ゴッホは弟のテオに仕送りをもらっていた。こういった天才と自分を比べてはいけないが、私は父母と弟に愛をたっぷり送ってもらったおかげで作品を作ることができた。「ゲゲゲのげ」は弟の実話が基になっているのだ。
8日に同ホールで行われたトークショーでは、山形放送(YBC)の陣内倫洋アナウンサーと和田さんと対談した。最中に28歳で岸田戯曲賞をいただいた時の映像が流れた。同時受賞の野田秀樹さんも若い。美輪明宏さんや秋川リサさん、湯浅実さんも映っている。べにばな国体(1992年)の演出をした時の映像には、助手をしてくれた中井由美子さんもいる。旧姓が犬飼なので「ワンコ」というニックネームだった。10年前にがんで亡くなった西高演劇部からの親友だ。介護施設にいるワンコのお母さんが時々電話をくれる。「ジュリ子ちゃん! 元気だが?」といつもしっかりした口調である。私の母と同じ93歳。8月28日の中井さんの命日にお見舞いに行った。
87年に初めて行った劇団3○○の山形公演など貴重な懐かしい映像を見せてもらい、さらに頑張らなくてはとあらためて思った。11月23日に同ホールで「ガラスの動物園」を上演することになり、52年前の夢がかなうが、その時に一緒に夢を語ったワンコも、隣の席で文学座の公演を見た遠藤順子先輩も亡くなってしまった。若い頃から応援してくださった松坂俊夫先生や平和活動の阿部秀而先生も亡くなり、一番喜んでくれたはずの父も。
生の演劇はその時の1回しか見られない。瞬時に消えて記憶にのみ残るものである。人生もそうだ。だからこそ、永遠にとどめようとして懸命に作品を作る。亡くなった人たちの分も心を込めて作りたい。人がいなければ、仲間がいなければ、一歩も進まないのが演劇だ。花笠まつりもそうだった。皆さま、いろいろとありがとうございます。
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