(207)夢がかなう~渡辺えりの ちょっとブレーク|山形新聞

渡辺えりの ちょっとブレーク

(207)夢がかなう

2022/8/31 12:03

 夢がかなうということはどういうことなんだろう? 今しみじみとかみしめていることがある。

 1972(昭和47)年10月に初演された故清水邦夫さんの作品「ぼくらが非情の大河をくだる時」を10月に演出することになった。

 50年前、私が高校生の時に山形市七日町の八文字屋で、その戯曲が掲載されていた演劇雑誌「テアトロ」を見つけた。立ち読みして感激し、翌日お金を持って店頭に行くと、売り切れていて落胆した。インターネット通販もない時代、一冊ずつしか入荷しない雑誌は売り切れたらすぐには手に入らない。演劇部の部室でその話をすると、同じクラブの渡辺多喜子さんが購入していたことが分かった。すぐに借り、一晩徹夜して原稿用紙に書き写した。西日が差す3畳間で正座し、泣きながら書き写した。

 16歳の胸を打ったその作品。山形で見ることはできなかったが、いつか演出してみたいという夢ができた。自分が演劇をつくる上で影響を受けた。

 舞台芸術学院の学生の頃、パンフレットはいつも私が編集する係だった。中学の生徒会でいつもやっていたので、雑誌作りは好きだったのだ。卒業公演の時にいつもより中身の濃いものを作ろうと、清水邦夫さんにインタビューをお願いしたいと考えた。18歳の学生だった私の依頼を快く引き受けてくださり、喫茶店で話を聞いた。とても面白い話ばかりだった。私が手書きした「ぼくらが非情の大河をくだる時」にサインもしていただき、本当に感激した。

 ところが、一緒に行った同期の学生がインタビューを吹き込んだテープの上に、間違えて自分の好きなロックの音楽を吹き込んでしまった。ツメを折るのを忘れたらしい。

 あの時のショックといったらなかった。忙しい清水さんにわざわざ来ていただき、2時間以上話を聞いたテープを無にしてしまったのだ。

 意を決して電話で正直に謝り、手紙も書いた。その上、原稿を書いてもらうことになった。「アンドロギュノス」について、というテーマのエッセーを原稿用紙2枚に書いて送っていただいた。若いからできたぶしつけなお願いだが、受けてくださったのは清水さんの人柄が大いにあるだろう。忘れられない思い出である。そして、後に劇作家協会で清水さんと対談させていただいた時、そのエピソードを話したら大笑いされていた。本当に魅力的な方だった。

 72年はあさま山荘事件、沖縄返還、ソ連の支配に抵抗したリトアニアの学生の焼身自殺、イスラエルのテルアビブ空港で日本赤軍の乱射事件などがあった年。歌謡曲ではレコード大賞にちあきなおみさんの「喝采」、新人賞に麻丘めぐみさんの「芽ばえ」が選ばれた。さまざまな価値観が乱立し、日本という国のアイデンティティーをさまざまな角度から追求しようとあがいているような時代に、革命を夢見て挫折せざるをえなかった若者の心情を描いた作品である。

 高校生の私があれほどシンパシーを感じて書き写した作品を50年後に上演できるとは。

 山形の演劇部の高校生が夢見たことが、50年の時を重ねて今ここに実現する。

 初演を演出したのは蜷川幸雄さん。石橋蓮司さんと蟹江敬三さんらが出演した。蜷川さんとは幾度か話し、石橋さん、蟹江さんとは何度か仕事をさせていただいた。尊敬する先輩たちである。

 あの時、青年たちは何を夢見て、何にあこがれ、命がけで体制に向かい、何を果たそうとしたのか? ウクライナ、ミャンマー、パレスチナと、戦争のやまない今、改めて検証したい。

 先日、本県の紅花文化をテーマにしたドキュメンタリー映画「紅花の守人(もりびと)」を鑑賞した。戦争の際、ぜいたく品とされた紅花栽培は禁止された。面倒で手がかかることもあり、戦後、そのまま栽培をやめた地域は多い。そんな紅の花を山形が作り続けている。平和を守らなければ、栽培も続けられない。人々の幸せのために紅花作りに身をささげてきた山形県人の優しく強い「美」と平和を求める心に感動した。

(俳優・劇作家、山形市出身)

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