手紙の重さを考えた。今はメールでもラインでも文字での会話が盛んで、直接電話で相手の生の声を聞くことがほとんどない。短くてたわいのない会話の文字がスマホの中で踊っている。
インターネットが浸透する前、思いを相手に伝える手段は手紙しかなかった。
紙に文字を記す時、この文字は永遠に残るものという思いになる。尊敬する先輩や恩師に出す時などは、何度も推敲(すいこう)して何カ月もかけて書いたものであった。
私の両親は東京で1人暮らしをする私を心配し、しょっちゅう手紙とはがきを書いて送ってくれた。
私が上京したのが18歳で、その頃から40年間届いた手紙は大きな段ボールに3箱ほどになった。
昨年から少しずつ整理し始めて読み返しているが、中には忙しくて開封していない手紙もあった。40年前に母から届いた手紙には現金5千円が入ったままになっていて、今年になって初めて中身を読んだ。なんて親不孝な娘なんだろうと相当に落ち込んだが、「親なら大丈夫、なんでも許してくれる」という過剰な甘えが自分にはあるのだと再確認した。
12月4、5日に山形市の東ソーアリーナで開催した古里プレミアムコンサートは、コロナ禍に大勢いらしていただき、本当にうれしかった。残りの人生、今後は故郷山形の文化を支える一員となって、山形で映画や演劇をつくりたいという夢のプロローグとなった。
来年から故郷で映画撮影の準備をし、出演は地元の皆さんにお願いしたい。そのためにも演劇のワークショップを重ねたい。一本の戯曲を発表することで、演技力は磨かれるものと信じている。
私が上京した頃の山形は演劇に対する偏見が強かった。父親からも猛反対を受けてここまで頑張ってきたが、次第に父の手紙の内容が変わり、日本の演劇に対する偏見が解けていくような時代の流れを感じた。
今回のコンサートで、私が20歳の頃の両親の手紙を朗読させていただき、父と母が好きでよく口ずさんでいた「舟歌」と「家路」を歌った。「肴はあぶったイカでいい」「女は無口なひとがいい」「灯(あか)りはぼんやり灯(とも)りゃいい」と、私の考えとは真逆の歌詞が好きな母の謙虚で清貧な考え。そして、180度変わった戦後の価値観の中で新世界へ挑む父の意志。今は認知症で介護施設にいる95歳と91歳の両親にささげ、感謝の気持ちを伝えた。
今回のステージのために作った、亡くなった親友にささげる歌「あこがれ」とコロナ禍の皆さんへの応援歌「未来のあなたへ」の新曲も好評だった。特別ゲスト・本多俊之さんのサックスも大好評。今回のために私が歌詞を付けた「マルサの女」も多くのお褒めの言葉をいただいた。
コンサートにご協力いただいたすべての皆さまに感謝します。
スタッフの弁当を買いに行ってくれたいとこ、ミュージシャンの送り迎えをしてくれたいとこの娘さん、舞台写真を撮影してくれた山形のバンド仲間、チケットをたくさん売ってくれた中学高校の同級生、演劇クラブの仲間たち、友の会の人たち、本当にありがとうございました。そしてお疲れ様でした。
山形に「えりクラブ」という花見や芋煮会、温泉のツアー、そして演劇のワークショップなどに参加できる面白い友の会を新たに結成しようと考えている。
山形の皆さまが、いつまでも元気で大笑いして暮らせることを願っている。
私の方は、手紙を題材にした「有頂天作家」という舞台の稽古中だ。来年1月に京都南座、同2月に新橋演舞場での公演になる。
それでは皆さま、よいお年をお迎えください。
(劇作家・俳優、山形市出身)
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