渡辺えりの ちょっとブレーク

(192)ジュリーに支えられて

2021/5/31 08:06

 5月28日、沢田研二さんのコンサートが東京国際フォーラムで開かれた。昨年のコンサートがコロナ禍で延期になり、待ちに待ったコンサート。客席は100パーセントの売り出しでの満席。チケットは発売初日に即完売。私も何回も予約の電話をかけてもつながらず、コロナのワクチン予約とジュリーこと沢田研二さんのチケットは取れないと、うわさになったほどだった。

 コロナ禍の観客約五千人の入場手続きに時間がかかり、25分遅れの開演。3年前からギターの柴山和彦さんとジュリーの2人だけのコンサートの幕は上がった。

 1曲目は、2年前に山形でも開催したオフィス3〇〇(さんじゅうまる)公演「私の恋人」のサーカスシーンで歌った曲を作る時に参考にさせていただいた歌「アニバーサリークラブソーダ」。休憩なしで歌い続けた2時間だった。コロナ禍なのでバラードを中心に歌うことにしたとのことだが、いつものように舞台のはじからはじまで全速力で走りながら歌うシーンもあり、73歳とは思えぬパワフルな舞台だった。

 山形六小6年の時に見たテレビ「シャボン玉ホリデー」に出演していた「ザ・タイガース」というグループサウンズ。そのリードボーカルの沢田研二さんに一目ぼれして55年。あきれるほど長い間のファンなのである。

 それまでクラシックしか聴かなかった私が、ロックやジャズの虜(とりこ)になっていくのもタイガースの音楽を聴いたからで、生まれて初めて小遣いをためて買ったLPもタイガースの「ヒューマンルネッサンス」というレコードだった。バロック音楽風の豊かなアレンジに感激し、私のバイブルとなった。中学校の体育授業の創作ダンス大会にも、このレコードの中の「光ある世界」を使って挑んだほどだった。長髪の男子は不良だと言われた時代で、タイガースは紅白歌合戦にも出場できなかった。彼らがCMに出ていたチョコを買うと、彼ら一人一人とデートしているような設定の声を録音したソノシートがもらえたので、何十枚も買って応募して手に入れた。送られてくると、暗記できるほどに毎日聴いていた。

 小学校からの情報を元に、私はこの日もジュリーの好きなピンク色のTシャツを着てピンク色のマスクを付けて会場に向かった。

 受付でお会いできた岸部一徳さんに無理を言ってお願いして、ピーとタローとサリーの3人と一緒に写真を撮らせていただいた。こんな日が来るとは…。

 あんなに憧れ、解散コンサートでは号泣してもう生きる望みはないと絶望したほどのグループ、タイガースのメンバーと一緒に写真が撮れるとは。久しぶりに客席で会った俳優の六平直政さんにも得意げに見せてしまった。劇作家のマキノノゾミさんや元自由劇場の俳優たちや、ジュリーが蜷川幸雄さんの演出を受けた「貧民クラブ」でジュリーの子供時代を演じた大沢健さんなど、演劇人も多く、映画監督の平山秀幸さんらもいらっしゃった。コロナ禍なので開演前後の楽屋お見舞いは禁じられている。ロビーでばったり会った知り合いの方たちと話すのも楽しい。客席も大いに盛り上がった。

 しかし、歌が始まるとコロナ禍の決まりで声援も送れず、立つこともできない。いつもは立ち上がって黄色い声で絶叫する人たちのなんとおとなしいことか。みんな礼儀正しく歌に聴き入っている。さすがベテランのファンたち。ジュリーにしかられるような行為はしないのである。開場前に近くの喫茶店で一徳さんのマネジャーとお茶を飲んでいると、周りには一目でジュリーファンと分かるおばさまたちがおり、食事をしたりケーキを食べたりしていた。ファン一人一人の人生を思った。さまざまな人生を送ってきた人たちがジュリーに支えられ、支えて今を生きている。開演前から涙がこぼれてしまった。

 「いくつかの場面」という河島英五さんがジュリーのために作った歌がある。私は高校生の頃その歌が大好きで、舞台芸術学院専修科の卒業公演の客入れ音楽のラストに使わせてもらった。仲間たちの卒業にふさわしいと思ったからだった。私が19歳の時、13人の卒業生のために書いた新作戯曲だった。その公演の準備中に20歳になり、成人になったお祝いをこたつの中で音響テープの編集をしながらやったという思い出がある。今回のコンサートでジュリーがこの歌を震えながら歌った時、私にとってのいくつかの思い出もよみがえり、時間の重さに胸を縛られたのだった。

 この人と出会わなければ、今の自分の人生はない。この会場にもいなかったし、周りの友人たちとも出会わなかったろう。

 沢田研二さんは出会った時と同じように言葉に不思議な想念を込めて歌い、全身で愛や平和を表現しようとしていた。この人が元気なうちは自分もやれると感じた。

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