渡辺えりの ちょっとブレーク

(191)再スタートに向けて準備

2021/4/29 07:44

 東京は25日から3回目の緊急事態宣言の期間に入った。当分また故郷山形が遠くなった。

 4、5月はテレビドラマの撮影で久しぶりの関西弁に四苦八苦している最中だが、その合間を縫って数日間山形に帰り、両親のお見舞いを続けた。相変わらず窓越しの面会だが外にマイクが置いてあり、機械を通して話ができるようになっていた。しかし、両親ともに耳が全く聞こえず、外の私だけが大声でマイクを通して話しかけ、両親は「聞こえね」と口を動かす。父が身ぶり手ぶりで紙に書いてくれというようなしぐさをしたので、介護施設の方がサインペンと紙を持ってきてくださった。

 「コロナで直接会えなくてほんとに残念」と紙に書いて見せると、「コロナってなに?」と聞いてきた。やはり知らなかったのだ。「猛威を振るっている感染症。それでみんなマスクをしている」と紙に書いた。「外に出たいか?」「出たい」などのやりとりがあり、施設の方に外出許可を願い出た。介護タクシーを予約し、外には一切出ない、食べ物も食べないと約束して、父の生まれた村を一回りすることにした。

 父は高村光太郎のファンで、光太郎が留学していたパリの街を回るツアーに弟と参加したことがある。その時に見たライラックの花が気に入り、山形の庭に植えるのが長年の夢だった。美畑町の実家は庭が狭く、弟が新婚旅行で拾ってきた種をまいて育てたマロニエ1本で余白はない。私が演劇塾を開くために購入した長根の古家の裏庭に、数年前ライラックを植えた。花が咲いたら父に見せようと頑張ったが、友達が良かれと思って誤って除草剤をまいて枯れてしまったりとさまざまなアクシデントに見舞われ、なかなか夢は果たせなかった。

 父ももう94歳、いとこの娘さんの友人の庭師にお願いし、今年植えていただいた木に花が咲いたので、介護タクシーで見てもらったのだ。「この木が大木になるまで、父ちゃん100歳まで生きてくれー」と私は祈った。父の通った村木沢小、母と出会った農協、父と母と祖母と伯母と叔父が暮らし、私が生まれた村木沢の山王。父が生まれた悪戸と介護タクシーは走ってくれた。法事などでお世話になっている皆龍寺では久しぶりに住職夫妻にもお会いし、新清堂では富神山の形のオリジナルの菓子を買った。コロナ禍なので、ゆっくり話したり、お茶を飲んだりできなかったが、父はとてもうれしそうだった。認知症で何も分からないと思っていたのに筆談ですべて通じた。ここは「長岡だな?」とはっきり地名も話してくれた。足の速い父がいつも運動会で活躍していたグラウンドも回った。母はコロナ禍で外出許可が下りなかった。

 早く収束してほしい。その時は両親を連れて、ゆっくりと懐かしい方たちと話しながら故郷を回りたい。

 4月1日から独立して渡辺えり事務所をたちあげたので、コロナが落ち着いたら演劇教室を山形で開くつもりである。月に一度は必ず山形で活動したい。山形で作品を作り、山形から発信する舞台である。そして子供の頃からの夢だった映画作りも、山形を拠点にして進めていきたい。今から山形での協力者を募ろうと考えている。

 「オフィス3○○(さんじゅうまる)」も私個人の会社で40年運営してきたので、ゼロからではないが、制作部もマネジャーもこれから募集し、一緒に育てていこうと思っている。

 故郷村木沢に帰ると66歳はまだ若い方である。まずはあと15年現役で頑張りたい。

 自給自足とはいかないので、まずは先立つものを稼がなくてはならない。七日町に巨大なマンションが出来上がって県内外から大勢の人が集まると聞く。その代わり村の方では過疎化が進んでいる。村と街をつなぐ演劇教室になれば良いと考えている。

 のし梅の佐藤屋さんから独立のお祝いにのし梅と、「苦難の時代、のし梅と戦争」という冊子をいただいた。戦争時の山形の様子が分かる稀有(けう)な本である。戦時中の物資不足から、国に廃業を迫られるお菓子屋さんの苦労。まさに菓子は不要不急のものと決めつけられた時代。進駐軍が、配給を禁じられた砂糖をこっそり持ってきてお菓子を作らせた話など興味深い。

 酒屋の娘と製薬会社の次男が一緒になって始めたのが佐藤屋さんというのも初めて知った。最初、のし梅は薬の役割も果たしていたらしい。

 戦時中の苦労とコロナ禍が重なる。昔から自分の事より人々の幸せを願ってきた山形の商人たちが奮起して今後も面白い山形をつくってくれるはずである。私は山形の農村で美しいしだれ桃の花を見ながら、これから再スタートに向けて準備を続けている。

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