渡辺えりの ちょっとブレーク

(1)ゼロ歳のつもりで

2005/1/31 18:24

 今年の1月5日で50歳になってしまった。

 確か織田信長は「人生五十年」と詠(うた)ったはずだ。子供のころ、自分が50歳になることがあるとは思っていなかった。祖母もまだ40代だったので、50代の人間はかなりの年寄りだと思っていた。大正時代の新聞記事に「52歳の老婆が電車にはねられた」という記事が載っている。私も昔なら老婆の歳になってしまったのである。

 しかし、実際になってみても、そんな実感はない。東京に出てきた18歳の時と少しも感覚は違わないのである。

 徹夜が辛(つら)くなった。お酒を飲むと翌日にひびくようになった。劇団の新人にしょっちゅう説教をするようになった。体重が増えた。白髪が増えた。顔や体にたるみが出た。おせっかいになった。本のページを指を舐(な)めてからめくるようになった。

 昔と変わったのはこのくらいではないだろうか? やっている仕事や、ものの考え方が変わったという印象はない。自分で自分を客観的に見つめられないからなのか、昔より自分が成長したという実感も、老けたという思いもない。これは子供がいないせいかもしれない。比較する対象がそばになく、いつまでも両親の子供という感覚が残っているからであろう。

 もうひとつ昔と違うのは山形が恋しくなった、ということ。18で出てきた当初は「何があっても帰らないぞ」というような意地があった。周りの反対を押し切っての上京だったので、何が何でも演劇で自立するのだという思いが古里を遠くしていた気がする。

 今では山形出身であることが私の誇りであり、自慢のできる財産となっている。仕事で外国に出かけても自分が山形人であることを知らず知らずのうちに話し、郷土の名産や気候のことを話し続ける自分がいる。これが若いころと一番変わった点かもしれない。30年以上暮らした東京はやはり自分にとっては仕事場に過ぎず、魂の安らぐ源流は山形という星なのかもしれない。

 古里に帰り、子供たちを集めて演劇塾を開きたいと思うようになったのも最近のことである。日本という国が拝金主義に侵され、想像の翼を広げ、目に見えない大切なものを探っていくような行為が大事にされなくなっていくのが我慢できずに、古里のこどもたちに演劇の面白さを教えてみたいと思ったのだった。演劇はコミュニケーションの芸術である。生身の人と人とが直接に対話し触って構築する作業で、相手の痛みを感じ思いやる心がなければ、つくることのできない行為なのである。

 50歳を一区切りとし、ゼロ歳に戻ったつもりで自分にできる限りの新たな仕事を考えてみたいと思っている。昔と違ってきたのは、人の役に立ちたいと強く思うことである。まだまだ自分の頭の上の蝿(はえ)も追えない日々であるが、全世界の人々が笑って暮らせる日が来ることを願ってやまない。

(劇作家・女優)

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