(7)記憶~渡辺えりの ちょっとブレーク|山形新聞

渡辺えりの ちょっとブレーク

(7)記憶

2005/7/27 18:20

 画家マリー・ローランサンの詩に確か「一番不幸せなのは忘れ去られた女」という言葉があった。若いころ、画集を繰っていた手を止めて見入ったのを覚えている。

 こうしている間にもすべては過去になり、瞬間瞬間に記憶が積み重なって現実は記憶の束になって明日へと向かっていく。人の体は記憶でできているとも言えよう。今愛している人への思いも、愛していたという記憶の結晶である。

 私は一体誰なのか?と問われたら、今まで生きてきた記憶をたどり、自分が自分であることを確かめるしかないのであろう。

 もし、記憶がかすれていき、徐々に自分が自分であることの確証がなくなり、過去に出会った人や、今共に暮らしている家族の記憶までが消えてしまったら。その孤独と孤立感はいかばかりのものであろう? そして何十年も苦楽を共にしてきたパートナーに突然忘れられてしまったとしたなら。

 「ミザリー」の千秋楽の後、撮影に入った渡辺謙主演の「明日の記憶」という映画は、若年性アルツハイマーにかかった50歳の男の話である。私は謙さんの妻役の樋口可南子さんの友人役で出演したのだが、たった2日間の撮影中にいろいろと考えさせられた作品だった。

 仕事人間で家庭はすべて妻にまかせっきりだった男がアルツハイマーになってしまい、初めて家族と向き合い、そのたいせつさを思い知った時にはすでに妻の顔や名前も忘れてしまうというストーリーだが、家族とは何か? 夫婦とは? そして愛とは? 生きるとは?と、さまざまなことを考えさせられる作品なのだ。

 人が人を愛する時、その人のどこを愛するのだろう? その人すべてを愛しているのだとして、その人がもし、容姿はそのままなのにまるで別人に変貌(へんぼう)しても、今までと同じように愛せるものなのだろうか? しかも、今まで共有してきた記憶のすべてを失ってしまったとしたら。

 何十年も共に暮らしてきた妻に先立たれた夫が妻の死の後、すぐに自殺してしまうことが多いのは記憶を共有してきたパートナーの死によって自分が自分であることの確証が断たれてしまうからではないかと思ったりする。女性の場合は現実と折り合おうとする本能が働いて、思い出とともに暮らしながら、友人とのおしゃべりで気を紛らせることもできる気がするが、男性の場合は話すことより、分かってくれているはずだという暗黙の了解の度合いが多いためか、話さなくても分かるという相手が消えてしまうと途端に行き場がなくなるのではないだろうか? 男性は自分自身はどうあれ、自分だけを思い、自分だけを愛してくれる人を妻にしたいと望んでいるので、亡くした時の大きさは計り知れないものとなるのだろう。

 女性の場合、耐えることに慣れている。自分の存在がすべてではないことを現実を通して知っている。それでも相手を許し、愛し、家を守っているのである。それは、愛されていたというたったひとつの記憶を反芻(はんすう)することによっても生きていけるという強さがあるためである。忘れられたら、出会いを繰り返し、明日の記憶を作り続けていこうとする女性の強さと優しさの映画でもあると思った。

(劇作家・女優、山形市出身)

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