(29)20年たってもこだわりたい「愛する」ということ~渡辺えりの ちょっとブレーク|山形新聞

渡辺えりの ちょっとブレーク

(29)20年たってもこだわりたい「愛する」ということ

2007/5/21 17:50

 自転車通学が夢だった。

 中学は山形六中だったが、学校までは徒歩で片道35分かかった。自転車通学の友人たちがベルを鳴らしながら軽快に通り過ぎるのを横目で見ながら、ため息ついたものだった。私の家が徒歩通学のギリギリのラインで、1軒裏から自転車通学が許されていた。1軒違いで自転車に乗れる生徒がうらやましくて仕方がなかった。ペダルをこいで颯爽(さっそう)と通学したかった。高校は自宅から徒歩3分の山形西高で、一度だけ意地で自転車通学を果たしたが、あまりに距離が短いのでばかばかしくてやめた。

 果たせなかった夢のせいか、私はしばしばセーラー服姿の女生徒たちが自転車に乗って通学する光景を戯曲に書いている。そのひとつが「川を渡る夏」という、昭和61年に演劇集団「円」に書き下ろした作品である。

 夏服を着た女生徒たちが自転車に乗り、主人公の青年に、明るい笑顔で「おはよう」と声を掛けながら通学していく場面で、その作品は始まる。

 主人公の青年は未知男という高校生だが、突然人事不省に陥り、目覚めてみると10年の月日がたっていたという設定だ。同級生たちはみんな17歳で、未知男だけが27歳。しかも昔の同級生が担任の先生になっており、その担任は高校時代から未知男に恋をしていて、目覚めるまで10年間ずっと待っていたと告白されたりする。

 東京に近いが大きな川に遮られ、時代に置いてきぼりをくったような昭和30年代のにおいのする架空の地域「川園町」が舞台である。橋ができる前は船頭をしていて、今はタクシーの運転手になった父。教員を退職して塾で教えている母。国鉄の人員整理の犠牲者になり、2人の子供を抱えながら妻に逃げられた弟。認知症の母方の祖母。そして母親の死んだ双子の姉の忘れ形見だという年齢不詳の双子の女の子。母親の姉の夫で、今は亡き小津達一郎が飼っていたという犬2匹。これらが未知男の家族であるが、死んだはずの小津さんが川の中から現れた時から、物語は思わぬ方向へ走り続け、意外な真実が見えてくる。

 実は10年前の川の氾濫(はんらん)で、川園町の全域は住民ともども川の中に沈んでしまっていて、生き残ったのが未知男ただ一人であった。死んだとされていた小津さんも東京で暮らしていたため生きていたのだが、川園町の住人がすべて川にのみ込まれてしまったことを知った時に自死してしまったという真実が分かってくる。この芝居は、愛する人々をすべて失い、孤独の闇の中で生きていかざるを得ない未知男が、10年間眠っていたのは自分の方で、川園町は今も生きて動いているはずだと願い、川が氾濫したということ自体が夢であったのだと思い込もうとする話なのである。

 この芝居を通して描きたかったのは人間の「愛する」という心のことで、戦争や災害で命を奪われた人々の思いや、残された人々の癒やされない心情である。

 このたび、劇団宇宙堂の実験公演でよみがえった芝居だが、20年以上前に書かれた作品でもテーマが普遍的なので、古さをあまり感じることはなかった。ちょうどその年に生まれたという観客に、感激したという感想をいただいたのもうれしかった。客が50人入ればいっぱいになる東京・荻窪の劇場での試演会だった。

 二度と会えない愛する家族たち、もう戻せない時間の束。それらの芝居のテーマに、私自身の、もう帰らない、中学、高校時代の記憶と、永遠に実現しない自転車通学とが加算され、現実の舞台以上に胸に突き刺さるものがあった。

 しかし、52歳になった作者の私から見ると、若い劇団員たちの思い入れがもっと欲しいと思うのだ。人に対しても、作品に対しても濃い愛情が欲しい。すべての関係が薄くなったと言われる昨今。私の主宰する劇団だけは時代に逆行してでも濃く、深い、家族的な関係性で演劇を作っていけないだろうかとあらためて感じた、劇団員だけの実験公演だった。

(劇作家・女優、山形市出身)

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