渡辺えりの ちょっとブレーク

(93)勘三郎さんの死

2012/12/25 16:07

 まさかこんなことになってしまうとは…。中村勘三郎さんが亡くなってしまった。

 私が32歳のころ、NHKの連続ドラマ「ばら色の人生」で共演してから、今日まで家族ぐるみのお付き合いをさせていただいた。新宿シアターモリエールという小さな劇場で上演した劇団3○○公演「オールドリフレイン」を1人で見て感動してくださり、家族を連れてもう一度来てくれた。それから会えば必ず芝居の話で盛り上がり、時間があれば私の出演する舞台を見に来てくれた。私も歌舞伎を見るようになり、地方公演、海外公演も都合をつけて見に行くようになった。今まで知らなかった歌舞伎の世界の面白さを体験することになった。

 勘三郎さんは30代のころから「テントで歌舞伎を上演したい」「ニューヨークで歌舞伎を上演したい」「小劇場の同世代の作家に歌舞伎の新作を書いてもらい、歌舞伎役者じゃない小劇場の役者と歌舞伎の舞台に立ちたい」。こういう夢を語っていた。勘三郎さんは50代までに昔からの夢を叶(かな)えたが、これは本当に希有(けう)な凄(すご)いことである。夢を語った当時、それは非常に困難なことだった。歌舞伎は雲の上の舞台で、現代劇の世界からは遠く切り離された場所にあった。「歌舞伎も元は現代劇だった。歌舞伎が始まった当時のような空気感が欲しい」。こう言っていた。

 どんなことにも全身全霊を傾けて没頭し、手を抜かない人だった。人を好きになったら最後まで信用し、決して裏切らない人だった。数年前、勘三郎さんが「怪談乳房(ちぶさ)榎(えのき)」という大量の本水を使い、その中で立ち回りをして何度も早替えする作品を歌舞伎座で演じた時、「こういう作品を若い劇団員たちに見せたいけど、みんなお金がなくて見られないんだ」という話をしたら、なんと若手全員にただで見せてくれたのである。若手たちは大いに感激し勘三郎さんに感想の手紙を書き、それをお礼としたことがあった。どんな若手でも分け隔てなく目を見つめて挨拶(あいさつ)をしてくれる人だった。

 初めてお宅にうかがった時も、銭湯の時間があるので遠慮しますと言った新人の劇団員に「風呂ならうちで入ればいいよ」と言って風呂に入れてくれたのを思い出す。

 BS放送の「大当たり!勘九郎劇場」で即興で舞踊を作るということになり、15分で書いた私の詩に、曲と振り付けを加え、勘三郎さんが踊ったことがあった。それが実に面白くできたことから勘九郎最後の舞台「今昔桃太郎」を私が書くことになった。千秋楽の日に歌舞伎座の花道に立たせてもらった感激は忘れられない。

 私の話にいつも大笑いしてくれた。同世代の誇りだった。同時代に生きていられて幸せだと思っていた。今、いないということを受け入れたくない。あまりに悲しい。

 19日、来年4月からのNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の撮影が休みになったので京都・南座に息子さんたちの歌舞伎を見に出かけた。2人とも気丈に演じていた。コクーン歌舞伎の仲間たちも、勘三郎さんのお弟子さんたちもみんな頑張っていた。朝の10時半から昼夜拝見したが、終演後、先代の勘三郎さんのお弟子さん中村小山三さんにお会いしたら泣いておられた。先代と共に兵士として戦争に行った方である。息子さんたちの後見役もしておられる最古参の役者さんだ。どれだけショックかと胸が潰(つぶ)れそうになった。

 勘三郎さんが撒(ま)いた種は花開いた。しかし、その果実を収穫する前に異世界に旅立ってしまった。彼の細胞を私たちが持ち続け、くじけないで彼の分まで努力しなければならない。しかし、今は本当に悲しいと言うほかはない。

(劇作家・女優、山形市出身)

[PR]
[PR]