(105)年の瀬に~渡辺えりの ちょっとブレーク|山形新聞

渡辺えりの ちょっとブレーク

(105)年の瀬に

2013/12/26 15:24

 一年がどうしてこんなに早く過ぎてしまったのだろう? あっと言う間である。しかし、この「あっ」はだいぶ濃くて深かった。

 何人分もの人生を生きたような「あっ」であった。昨年秋から続いたNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の撮影。生まれて初めて女優として読売演劇賞にノミネートされた「根っこ」の稽古と本番。

 春には4年半続いたテレビ番組「情報7days ニュースキャスター」の卒業もあった。2時間ドラマを2本撮影、コンサート、そして新作「あかい壁の家」の執筆と上演と地方公演。映画「舞妓はレディ」の撮影などなど。

 目が回るような忙しさではあったが、山形にも何度も帰ることができたのは嬉(うれ)しかった。

 12月は戯曲賞の審査の仕事なども重なり、寝不足が続いた。年末に本当に目が回って医者に行ったら「低血圧症」と言われた。血圧が上が78、下が50という低さ。温度差の激しい妙な気候と過労とが重なったようだ。子供の頃から低血圧で、具合が悪いなと思う時はいつも上が78である。山形西高の保健室のベッドでもそうであった。性格も夢もあの頃と変わらず、変わったのは年齢と体重だけ。18歳から58歳の今日まで本当に成長したのだろうか?と落ち込むことが度々ある。

 18歳のあの頃、両親の反対を押し切って演劇をやるために出てきた東京。ジュリーと出会って一緒に仕事をするまでは絶対に止(や)めないと心に決めていた。ジュリーと出会えたのは29歳。共演したのは38歳の時だった。

 出会うことができ共演もできたが、演劇を止めなかった。美輪明宏さんとお会いしたいと願ったら、演出部として一緒に舞台をつくることができた。唐十郎さんにお会いしたいと願ったらお会いできたばかりかその作品の主役に抜擢(ばってき)された。そう考えると幸せな人生だったかもしれないが、あまりに夢中で頑張ってコツコツやってきたために、その幸せに浸った覚えがまるでない。いつもただただ必死で歯を食いしばっていた気がする。いつも余裕がなくギリギリでやっていたためであろう。

 お客さまの喜ぶ顔がご褒美だった。仲間や、友人たちの喜ぶ顔も見たかった。乗せられれば何でもやった。この40年はそんな日々だった。

 これからはもっと落ち着いて自分というものを見詰め直さなければなるまい。

 中村勘三郎さんがいない。山形の中井由美子さん(舞台照明家)もいない。お世話になって影響を受けた三国連太郎さんも森光子さんもいない。ベテランと言われる自分が、いない存在の影を追いかけてばかりいる。しっかりしなくてはと思うが寂しさが折々に突きあげてくる。

 暗雲立ち込める日本の針路にも指を咥(くわ)えて見ているわけにはいかない。自分自身が余裕を持って考えを定めて行かなければ、恐ろしい流れに流されかねないのである。

 今年の紅白歌合戦に、NHKホールの舞台上で「あまちゃん」の仲間たちと参加することになった。勘三郎さんが紅白の司会をした時にその応援に友人たちと出演したことを思い出す。来年はコンサートとディナーショーで一年が始まる。

 故郷の皆さま、良いお年をお迎えください。いつも応援していただき本当にありがとうございます。来年も頑張ります。皆さまのご健康をお祈りいたします。

(劇作家・女優、山形市出身)

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