(117)「ありがとう!」~渡辺えりの ちょっとブレーク|山形新聞

渡辺えりの ちょっとブレーク

(117)「ありがとう!」

2015/1/30 13:05

 1月5日でとうとう60歳、還暦になってしまいました。

 山形の村木沢にいた幼児の頃、母の母はまだ40代。農協の窓口で事務をしていた母が家に戻るまで、その祖母が私の面倒を見てくれた。私が4、5歳の頃はまだ50歳。幼い私にとってはお婆(ばあ)さん。人間ではない何者かに思えたものだった。まさか自分がそんな年を越えて、人生のゼロ地点に戻るという還暦になってしまうとは…。いまだに信じられない思いがする。

 まさにあっという間。時々帰る山形の街並みは驚くほど変化しているが、村木沢の冬景色は昔と変わらない。雪化粧した富神山。真っ白な田畑の間に捲(めく)れ上がった白い皮膚のように長く続く細い道。晴れの日の青空と雪景色のコントラストも素晴らしく、曇りの日の墨絵のようなそれも見事である。こんな美しい風景を知らずに育つ東京の子供たちにいつか見てほしいと思い続けている。これを60代の夢のひとつに加えたいと思っている。

 母が昨年から介護施設にいるため、仕事の合間に山形に帰っている。暮れの慰問のコンサートも皆さまとても喜んで、「湖畔の宿」などの昭和歌謡を皆さんはっきりと口ずさんでくださった。この歌は母が料理をする時によく歌っていた。そして音痴だった祖母も好きな歌であった。この歌を覚えるために高峰三枝子さんの歌を何度も聞いた。

 高峰さんは「この歌を胸に特攻隊として飛び立った方がたくさんおられ、この歌を歌うたびに、そのことを思い出し、辛(つら)い気持ちになります」とおっしゃっていた。この歌の歌詞を黙って死ななければならない若者の気持ちに重ね合わせて歌うのは本当に辛い。自分の苦しみを誰にも言わず、みんな昨日の夢と諦める。

 この台詞(せりふ)がまた辛い。何も知らなかった10代、20代の頃の若く残酷だった自分。気持ちよさそうに歌っている中年の方を大笑いして聞いていた記憶がある。

 年を取るということは自分自身も辛い思い出を持ち、辛い思い出を持つ人たちの心にも寄り添い涙をともに流し、助け合うことができてくるということだと思う。何の悩みもなく、ただただ幸せに生きてきた人などは稀有(けう)だろう。みんなみんな泣きながら耐えながら生きてきたのだと思う。

 戦争はそんな人生をも消し去り、思い出を語ることも許さない。現に今、後藤健二さんという仙台出身の、世界の貧しい子供たちを愛するジャーナリストが、中東の過激派グループから人質に取られる残酷な事件が起きてしまった。戦争とはこういうものだ。

 60になってさらに戦争を憎む。

 母は悩みなき子供のような表情になっているが、家に帰りたいとしきりに訴える。仕事で東京に戻らざるを得ない自分がいる。18歳で東京に暮らすための雑貨を母が買ってくれて、山形に帰る時に「これまで娘を育ててきて一緒に暮らせないなんて、自分に何の罰が当たったのか?」と泣きながら山形に戻ったという母。84歳の今も一緒に暮らしてやれない親不孝な自分である。

 落ち込み、怒り、泣き、笑う。忙しい60歳。そして今年は山形で還暦コンサートをやる予定である。その題は「ありがとう!」。今まで私を生かしてくださった皆さまに「ありがとう!」を言いたい。父と母にも感謝を込めて歌います。

(劇作家・女優、山形市出身)

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