父の子供時代は軍国主義真っただ中。小学校の担任が「予科練を選ぶか? 満州開拓団か? 軍需工場に行くか?」と子供たちに決断を迫る時代であった。父は軍需工場に行くことを決めた。父は14歳から20歳まで武蔵野市の中島飛行機工場で旋盤工としてゼロ戦のエンジンを作っていた。工場には養成機関もあり技術や一般教養も学べる学校で勉強しながら工場で働くシステムになっていた。全国から少年たちが集められ、朝から晩まで働いていたのである。
正義のための戦争と信じて働き続けていた父の価値観が大きく変わった出来事があった。
父に、文学や芸術など多くの影響を与えた親友の佐野保隆さんが米軍の爆撃で亡くなったのだ。互いに19歳の時である。遺体の確認に出掛けたのも父であった。優秀だった佐野さんは工場の中のリーダーを養成する機関に進学するよう上部から進められていたが、「こんな厳しい状況の中で自分一人が出世コースをあるくような道をあゆみたくない」と佐野さんは父に相談した。父は「こんな時代だからこそ佐野さんのような人がリーダーとして必要なんだ」と説得し、父たちの寮をはなれ、一人その養成機関の建物に移った直後の爆撃であった。父は自分があの時に勧めなければ佐野さんは亡くなることはなかったのではないか?とその後、今日まで後悔し続けてきたのだった。
その佐野さんのお墓を、武蔵野の空襲を調べて研究なさっている牛田守彦さんが発見してくださり、牛田さんと知り合いの山梨県の戦争遺跡を研究している向山三樹さんが山梨の「アザリア記念会」のメンバーだったことで、宮沢賢治の友・保阪嘉内の息子さんへの取材と佐野保隆さんのお墓参りの両方が実現できたのだった。
デイサービスに通う他はなかなか外出しなくなっていた88歳の父がこの3月墓参りのために上京し、私の家に1泊して「あずさ」に乗って山梨に出掛けたのだ。宮沢賢治の研究家の加倉井厚夫さんに案内していただいた。
保阪嘉内と賢治らで作った同人誌「アザリア」が今も受け継がれ、その会のメンバーである向山さんと現地で合流した。保阪嘉内の次男の庸夫さんと孫の美佳さんたちと会食したりの楽しい時、桃の花、菜の花の美しい畑を見学し、かなり山奥の見延という村の墓と菩提(ぼだい)寺を参った。住職も号泣し、感動的な墓参りとなった。
70年ぶりに父は墓の中の親友と再会した。満19歳で防空壕(ごう)の中で亡くなった佐野さんの実家には今はもう誰も住んでいなかった。「立派な人だった。あんなに立派な人は他にいない」。父は墓参りの間、何度も何度も口にした。88歳の父と永遠に19歳の佐野さん。父は「戦争とは何か?」「教育とは何か?」を探求するため、戦後山形に戻り、夜学に入って教員となった。
180度価値観の変わった世の中に戸惑い、「少年だった自分らの教育が何のためであったか?」「人を支配するのは教育ではないのか?」とその謎を解くために教員になろうとしたと語っている。父がこれまでコツコツと積み上げてきた研究を父はほとんど忘れてしまった。しかし、佐野さんに対する後悔と無念さは今も父の胸を縛っている。「戦争」とはそんな黒い魔物なのである。父と佐野さんのことは「光る時間」という戯曲に書いたが、あの戯曲の続きを書かなくてはならないという思いが濃くなった。二度と戦争を起こさないためにも。
父と佐野さんの関係が、賢治と保阪嘉内の関係に重なり、胸に熱いものが込み上げてきた。今回のコンサートで、賢治と嘉内が作詞作曲した歌も歌って、父たちの世代の友情と非戦の思いも伝えたいと思う。
◇
昔からの夢だった故郷山形でのコンサート。しばし現実を忘れて楽しんでいただければ幸せです。今回、素晴らしいミュージシャンの方たちと参ります。
皆さんお時間ありましたらぜひお越しください。皆さんが幸せな気分になりますよう、歌とおしゃべりでお迎えいたします。
(劇作家・女優、山形市出身)
|
|