渡辺えりの ちょっとブレーク

(185)山形での芝居作りを夢見て

2020/10/31 15:23

 私が生まれたのは山形市大字村木沢字山王である。5歳まで育ち、その後は同市の美畑町に両親が家を建てて家族4人で引っ越した。高校を卒業して東京に出るまで過ごしたのは美畑町である。しかし、生まれた村木沢の環境が忘れられず、いつか生まれた場所に稽古場を建て、合宿して演劇作品を作れないものか?と夢に見た。しかし、法律の壁が厚く立ちはだかり、農地を買って宅地にすることは不可能であった。諸々(もろもろ)の条件があり、土地を売ってくれる方も見つからなかったのだった。

 山王の隣地区でまだ新しい家を売りたいという方が現れたのが15年ほど前だろうか? 山王の庭から見たのと全く同じ夜景が見える家だったので、ローンで買ってようやく自分のものになった。60歳を過ぎたら山形に戻って演劇塾を開こうと願っていたが、まだ東京で仕事を続けないと資金もたまらない。しかも、高校時代の演劇部の友人たちに、山形に帰って演劇活動をしたいと相談したら「まだ帰ってこないでほしい」と止められた。「ジュリ子には東京で活躍していてほしい。舞台やテレビや映画で活躍している姿を山形で観(み)たいのだ」と言われてしまったのだった。

 山形に帰って演劇を作ろうと思っていたのだが、昔の仲間たちは体も動きにくく病気がちで、一緒に作品を作る手助けもできないとのことだった。残念無念。しかし、諦めずに少しずつ準備をしようかと思っていたところに、コロナである。

 月に一度、お見舞いに来ると決意した両親の住む介護施設でも規制があってなかなか行けず、友人たちとも自由に会うことができない。山形の演劇人たちを集めて相談しようにも、できない現実に直面した。

 そんな中、新庄の歴史ある劇団が私の作品「光る時間(とき)」を上演してくださったのは大感激であった。山形新聞にも舞台評が載り、劇団の皆さんが決死の覚悟で上演してくださったことも分かった。この作品は私が父に取材して、10年をかけて完成させた戯曲であった。戦争の悲惨、戦争によって市井の真面目な一般人の心がいかに傷つき、いたぶられるものか? その残酷が普通になってしまうのがまさに戦争なのだ。重い口をやっと開いた父の話を聞き続け、一緒に作ったと言っていい作品だった。今まで関西や東京の劇団が多く上演してくれていたが、山形の劇団が、しかもコロナ禍に上演してくれたのは本当に嬉(うれ)しかった。

 今月の帰郷で山形の友人のお母さまがシベリアに抑留されていた事実を知った。「光る時間」では父の兄が抑留されていたシーンを描いたが、今後さらに調査して新しい作品を書きたいと思っている。

 やはり山形が好きだ。窓から見る景色の豊かさ。幼馴染(なじ)みの温かさ。親切な近所の方たち。

 取り壊されて更地(さらち)になってしまった生家だが、今朝山王の叔母が取り壊される前の茅葺(かやぶ)き屋根の家の写真を額に入れて持ってきてくれた。

 近くの銀行に地元の写真家が撮影した家の写真が飾られていたので、問い合わせていただいたのだという。前から私にあげようと思っていたのだと。生まれて5歳まで育った家の全景の写真だ。先月写真に収めたさるすべりの木は見えないが、家全体が私の生まれた当時のまま残っている。薄暗い土間と台所。扉のない小さなお風呂。叔父と叔母の部屋。いつも20人の生徒さんが祖母に和裁を習っていた、日当たりの良い部屋。母が私をおんぶして洗濯していた玄関。父が手を振る自転車。

 何年かかるか分からないが、夢を諦めず、山形での芝居作りができる日を夢見て頑張りたい。

(女優・劇作家、山形市出身)

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