鶴岡市南部から北上してきた内川が、東へと流れを変えてすぐの所に大泉橋はある。かつてはたもとに酒田行きの舟着き場があり、俳人松尾芭蕉が「おくのほそ道」の行脚で、ここから乗船したという。市出身の作家藤沢周平の小説「秘太刀馬の骨」にも「千鳥橋」の名称で登場する。
江戸時代、架橋当初の名前は地名にちなみ「荒町橋」。地図上では橋が胴体、北側に位置する現在の山王商店街が頭、南側の二またに分かれる道路が脚のように見えることから、「人形橋」という呼び名もあった。1876(明治9)年の架け替えに伴い、大泉橋に改称。定かではないが、江戸時代以前、赤川流域一帯を指した「大泉荘」に由来する-という説もある。
その十数年後、オランダ人の設計で石造りになった。アーチが三つ連なり、「眼鏡橋」と呼ばれて親しまれた。大正時代に入ると人、馬車の往来が増え、事故が頻発。また増水時は石の橋脚が川の流れを妨げ、丸太などが引っ掛かって洪水被害を大きくしたため、拡幅と併せて架け替えを求める声が高まった。
コンクリート製の現在の橋(長さ29メートル、幅17.9メートル)は1931(昭和6)年完成。近くに住む丸藤律さん(67)=山王町、会社役員=の祖父・故甚五郎さんが、コンクリート製造会社の社長として工事を請け負った。当時としては先進的な技術を用いて造られた石橋を、甚五郎さんは「この橋が落ちたときは、おれが死ぬときだ」と語り、誇りをにじませていたという。
大泉橋は現在内川に架かる橋の中で最も古い。丸藤さんは「『この丈夫な橋を架けたのはおれのじいさんだ』というのが自分にとっても誇り」と話し、祖父の思いが込められた橋を見つめた。
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