やまがた橋物語

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寒河江川前編[4]

◆臥龍橋(寒河江)

臥龍橋(寒河江)の写真 昭和初期に架けられた臥龍橋は美しいアーチの上に朱色の手すりが鮮やか。左奥に白岩隧道が見える=寒河江市

 古刹(こさつ)慈恩寺と寒河江市街を結ぶ道であることを示すように、臥龍橋(全長五十五メートル、幅六メートル)は朱色の手すりに宝珠柱が設置されている。優美なアーチを描くこの橋は一九三七(昭和十二)年に完成した。橋の北側は岩壁の切り通しで、丁字路の慈恩寺方向には白岩隧道(ずいどう)がある。

 臥龍橋の歴史の始まりは江戸初期の一六二二(元和八)年。白岩領主酒井長門守が今より二百メートルほど上流の赭熊渕(しゃぐまぶち)という所に架橋し、幾度となく流出と架橋を繰り返し、一八二七(文政十)年に現在地に橋が架けられた。橋脚が流出の要因となるので、橋脚のない刎(はね)橋という様式だった。それは水流が激しい場所や深い谷に橋を架ける技術で、江戸時代の土木技術の集大成とされる。

 工事を監督した柴橋代官所手代の相沢大助は竜の背骨のような姿だと「龍脊(せき)橋」と称した。その後、白岩村の医者で学者の高橋礼輔が現在に至る「臥龍橋」と名付けた、とされる。

 橋のたもとで酒店を営む松田新一さん(58)は「橋を渡って慈恩寺に向かう観光バスは隧道の手前で四苦八苦する」と話す。丁字路は慈恩寺方向への右折が鋭角。バスは切り返しをしても曲がれないので、仕方なくいったん左折し、やや行った所でUターンして戻ってくる。

 一九九六年に補修工事が施された。当時の臥龍橋は三十年かけて成長したツタが橋を覆っており、地区の人たちは風情がなくなるとして工事に反対した。だが、放置すると傷みが進んで車が通行できなくなることから、ツタは切られて工事が行われた。緑のアーチの再現が待たれる。

2009/03/23掲載
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