やっと“陸の孤島”解消-。一九六八(昭和四十三)年六月二十一日付の山形新聞は、大平(おおだいら)橋開通のニュースをこんな見出しで報じた。最上川の最上流部に位置する米沢市大平地区。市街地に通じる唯一のルートを確保する大平橋の架橋に、当時の住民たちは大いに喜んだ。
長さ二十九メートル、幅六メートルの大平橋は、堰堤(えんてい)の上に橋脚を建てているのが大きな特徴だ。近くに住む大竹勇夫さん(72)によると、この設計は当時の南原村(後に米沢市に合併)の大竹倉次村長の“作戦”だったという。
大竹村長は、財政難でなかなか架橋が実現しない現状を打開するため、両岸が狭まり谷になった場所にまず堰堤を築いた。その後、堤体の上に橋を架けることで橋脚が短く、全長も短い橋の設計になったという。
戦後間もなく造られたという以前の木橋は、傷みがひどく、冬季間は除雪車が通行できないのでバスも通らない。住民はどこに行くにしても徒歩に頼るしかなかった。
当時、大平地区の人々は、冬は炭を焼き、燃料として市街地まで売りに出掛けて生計を立てていた。現在の橋がある辺りは急な坂道で、馬そりで出掛けた勇夫さんらは大変な苦労を強いられた。新橋の完成によって、こう配が緩和されたことも喜びの一つだったという。
大平橋の上流に、米沢藩の藩主らも訪れたという松川大滝がある。一行が休憩したという河川敷の大きな岩や古民家など、ゆかりの場所が今も住民らによって語り継がれている。
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