白鷹町民にとって、橋といえばおおむね「荒砥橋」を指す。東側の荒砥と西側の鮎貝という主要地域をつなぎ、人々の往来も多い。町内の融和や発展にも大きな役割を果たしている。
一八八六(明治十九)年、下長井橋として整備された。水害による幾度かの決壊を経て、一九五七(昭和三十二)年に完成した現在の橋は、長さ三二二・九メートル、幅五・七メートル。そばには自転車や歩行者が通る橋もある。南側には、百二十年前に英国で造られた、県内最古とされる鉄橋の一つ「フラワー長井線最上川橋梁(きょうりょう)」(通称・荒砥鉄橋)が並ぶ。
白鷹町史によると、明治から大正にかけては、株券を発行して得た資金で橋を架け替えた。通行人から橋賃の支払いを受けて株の配当としていた。農作業のために川向かいの耕地に行く人は橋賃を免除されるため、私用目的の人も農作業の服を着て橋を渡り、別の服に着替えて用事を済ませた後、帰りはまた農作業の服で帰った-というエピソードも残る。
町の東西が最上川で分断される特殊な地形のため、町内には古くから、東西間のしこりのようなものがあった。住民の対抗意識は高く、政治や行政に大きな影響を及ぼすこともある。
現在の荒砥橋の完成は、こうしたしこり解消に一役買ったと見る向きが多い。橋は土地間をつなぐだけでなく、東西の人々の心の懸け橋ともなっている。
|
|