西洋風のハイカラな橋を、住民は親しみを込めて「おはし」と呼んだ。金山町の中心部、十日町と羽場地区を結ぶ金山大橋(五八・五メートル)は、一九七七(昭和五十二)年に現在の橋に架け替えられるまで町の象徴的な存在だった。
先代の「おはし」が架けられたのは一九三三(昭和八)年。当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りで、親柱には近代的な街灯まで付いていた。アーチ状の形に加え、幅五十センチ近くもあった欄干が大きな特徴だった。「欄干の上で自転車に乗った」という武勇伝も残る。自転車はともかく、欄干の上を歩いて渡る“冒険”を楽しむ子どもたちは少なくなく、大人たちを冷や冷やさせた。羽場に住んでいた鈴木洋町長は「自分は経験したことはないが、欄干の上を歩く小中学生は確かにいた」と思い出を語る。
「おはし」の歴史は明治初期にさかのぼる。県内の基幹道路網を大改修したことで知られる初代山形県令の三島通庸は、秋田県に通じる「金山新道」の建設を命じた。これに伴い、十日町からいったん右折して羽場に至る旧道に代わり、直進する新道が開削された。一八八〇(明治十三)年のことである。その時架けられたのが初代の金山大橋(木橋)だった。
現在の大橋の脇に二〇〇四年、屋根付きの歩道橋が完成した。金山杉をふんだんに使い木の持つ柔らかなイメージを強調。途中にベンチを置いて語らいや憩いのスペース設けるなど、安らぎの空間を演出した。観光客などは「切り妻屋根の伝統的な街並みと調和し、絵になる」と称賛する。町の新たな名所となった歩道橋は「きごころ橋」と命名されている。
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