鎌倉時代のはじめ、源義経が兄の頼朝から逃れる途中、立ち寄ったと伝えられる新庄市本合海。山形県南部から滔々(とうとう)と北へ流れてきた最上川が大きく蛇行しながら、西へ進路を変えるこの場所には、八向山が位置する。
かつては水平
白い絶壁が美しい。よく見ると、地層が屹立(きつりつ)したような状態でむき出しになっている。東側の地層はほぼ60度の角度で東に傾斜、一方、西側の地層は反対に西に傾斜する。山形大教授の八木浩司によれば、周辺の地層はかつて水平だったが、日本列島が東側から受ける激しい圧縮運動の結果、大地が褶曲(しゅうきょく)、隆起して八向山ができた。三角山のように変形した地層がそれを裏付ける。
八向山のすぐ東には新庄盆地断層帯西部を構成する「鮭川断層」が南北に走る。鮭川村庭月から新庄市升形を抜け、大蔵村赤松周辺に至る約17キロの断層。「八向山は、鮭川断層の活動によって新庄盆地の底にたまった古い地層がまくり上げられて隆起した」と八木は解説する。
鮭川断層は比較的新しい断層という。「この断層の西側には出羽丘陵を持ち上げた大芦沢断層がある。『大芦沢』が活発だったころは『鮭川』は動いていなかった。しかし、『大芦沢』は現在は動きを止め、活動の場が『鮭川』に移ってきた」。大きな山(出羽丘陵)を持ち上げるよりも、その手前の山裾(八向山)を変位させたほうが楽なため、断層活動の場が手前に移る「スラスト(押す)フロント(前)マイグレーション(移動)」という現象だ。
国土地理院の都市圏活断層図では、活断層は「最近数十万年間に、おおむね千年から数万年の周期で繰り返し動いてきた跡が地形に現れ、今後も活動を繰り返すと考えられている断層」と定義。大芦沢断層は最近活動した証拠がないため、政府の地震調査研究推進本部の長期評価では対象外。都市圏活断層図にも記載されていない。
同じような地質構造として経壇原断層がある。新庄盆地の東側、奥羽山脈の西麓に位置する断層で、東京大学地震研究所を中心とした研究グループが分析した新庄盆地下の断面図では、地層が大きくずれている様子がうかがえる。しかし、過去数万年間は活動を停止していると考えられており「活断層」とは認定されていない。
激しい圧縮運動で大きく褶曲した八向山の絶壁=新庄市本合海
最上川の蛇行
「断層運動が活発な場所では川が大きく蛇行するという経験則がある」と八木は話す。「本合海では最上川の流れを遮るように、鮭川断層によって隆起した八向山が位置している。村山市の大蛇行も山形盆地断層帯を構成する富並断層の影響を受けたためで、いずれも最上川が勝手に曲がったわけではない」
その昔、義経が弁慶以下わずかの家来を従えて通ったとされる本合海は、松尾芭蕉が門人の曽良と舟で下った場所としても名高い。この地はまた、正岡子規、斎藤茂吉など数多くの俳人、歌人が訪れた。地震発生のメカニズムや活断層の存在を知った後ならば、違った歌が詠まれていたかもしれない。=敬称略
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