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| 「第49回県少年の主張大会−いま伝えたい 私のメッセージ」(主催=山形新聞、山形放送、県防犯協会連合会、県青少年育成県民会議)が9月25日、山形市の山形国際交流プラザで開かれた。県内の15地区大会、4ブロック大会を勝ち抜いた中学生16人が出場。ステージで自分の思いを堂々と発表した。最優秀と優秀に輝いた3人の主張を紹介する |
【最優秀】 上路紗代(山形四中3年)
「ありがとうございます」。「失礼します」。「よろしいですか」。人から、このような温かい言葉をかけられると、わたしは心が包まれたように穏やかになります。皆さんには、こんなたった一言で心が温かくなった、そんな経験がありませんか。感謝の気持ちを持つ人や、誠実な態度をとる人、誰に対しても尊敬の気持ちを持つ人は自分にそれが返ってくると、わたしは考えています。
5月に東京修学旅行に行ったときのことです。自主研修に向かおうと、わたしの班は電車に乗り込みました。最初は車内が空いていて、座って、今から訪問する施設について思いを巡らせていました。ところが、駅が進むにつれて乗客は増え、車内も混雑してきました。そんなとき、初老の夫婦が、座っているわたしたちのすぐ前に立ちました。「席を譲った方がいいのかな」わたしの体は固くなり、心には葛藤(かっとう)が渦巻き始めました。窓には、都会の街のビル群が流れていきます。「声をかけたら、どう思われるだろうか。どうしようか。田舎から来たから、心配なのかな」いろいろな不安が胸に浮かんだものの、「やっぱり親切にするのが大切だ」と、自分に言い聞かせました。「どうぞお座りください」。そう言葉をかけた瞬間、確かに世界の色が変わったと、わたしは覚えています。まるで真っ暗なトンネルから抜け出したときに、明るく美しい青空が広がっているのを見たような、さわやかな気持ちになれました。
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【優 秀】 小野寺萌(朝日中3年)
「10番。鶴岡市立朝日中学校。百年祭」アナウンスと同時に大きく深呼吸して、クラリネットを構えました。県大会の舞台に立てた胸の高鳴り。これから始まる最後の演奏。生徒数の減少で廃校になる高校の吹奏楽部のために作られたこの曲は、たった7分の中に時の流れを思わせる、明るくて切ない、私の大好きな曲です。夜明けを感じさせる出だしのソロを吹くと思い出します。たくさん泣いたこと、逃げたい時もあったこと。弱い自分が嫌いだったこと。
吹奏楽を始めたころは、一人で弾くピアノとは違い、みんなでできるのがうれしくて、ただ楽しく活動していました。しかし、学年が上がるにつれ責任も増えていきます。「今年のコンクールでは絶対にいい結果を出したい。もっと強くなりたい」。しかもわたしは、部長という立場に加え、クラリネットのソロパートというとても重要な役割も任されました。萌ならできる、と周りが期待し、わたしを信じてくれたことがうれしく、自信になりました。しかし、同時に「失敗できない、みんなの期待に応えなければ」というプレッシャーで、どんどん追い込まれていきました。「だめだめ音がかたい。力みすぎて肩が上がっている。それじゃあ見ている方が苦しくなる。もっとおなかを使って。もっと真っすぐな息で。もっと豊かな音で」。自分の演奏に足りないこと、できないことは自分が一番わかっているし、注意して練習しているのに、納得のいく演奏ができない。悔しい。できない自分に腹が立つ。そんな焦りと不安が爆発し、涙があふれました。
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【優 秀】 油井美帆(米沢二中3年)
「マガンダン ウマガ クムスタ カ? ペーデ バ タヨン マグラロ ンガヨン?」
母と母の友達との会話…。わたしの家族はごく普通の家族です。違うことはたった一つだけ。それは母がフィリピン人だということです。父と母は、母の生まれた国で出会い、結婚しました。そしてわたしが生まれたのです。わたしは、生まれたときから日本人として育てられてきました。
幼いとき、「かあさん、タガログ語を教えて」と言っても母は、絶対にフィリピンの言葉を教えることはしませんでした。「美帆、あなたは日本で生まれた立派な日本人、だから、タガログ語はいらないの」。母がタガログ語を使うのは、電話で友達と話すときだけ…。楽しそうなタガログ語の会話を聞くとき、フィリピン人としての誇りを忘れないようにするためなんだろうなと感じます。
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【優 良】 斎藤孝幸(宮川中3年)
「君たち4人には、サッカー部をやめてもらう」僕の頭は、顧問の先生のその言葉で混乱した。「やめる?」「中体連本番の2週間前に?」「僕は部長なのに?」疑問符が交錯した。しかし、その日、僕らは、サッカー部をクビになった。
僕が、サッカー部をクビになった理由。それは、買い食いした友達に付き合ったからだ。部活の終わった帰り道、チームメートがジュースやお菓子を買ってくれた。僕は、それを止めなかったし、手渡されたものも拒まなかった。それだけじゃない。2人乗りも数え切れない。ヘルメットをかぶらずに自転車に乗ったことも度々だ。
今になってみると、情けない。でも、そのときは、罪悪感はなかった。むしろ、それを止めることが、仲間として恥ずかしいことのように感じていた。正義漢ぶって何かを言うことがためらわれるような…。注意することで、友達として認めてもらえなくなるような…。そんな感覚が働いていた。
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【優 良】 堀偉久麿(山形二中3年)
その日は突然やってきました。入院中だった祖父の容体が急変し、帰らぬ人となってしまったのです。祖父が亡くなった朝、病院から、危ないから急いで病院に来てほしいと電話がありました。僕も一緒に病院に行きました。病院についたときにはすでに意識がなく、心臓マッサージや人工呼吸をされていました。
僕は、元気だった祖父のことが頭に浮かび、びっくりして声も出ません。母は、「じいちゃん、じいちゃん、目を開けて」と何度も言っていました。僕は情けないことにその状況に驚き、「じいちゃん」と呼ぶことすらできません。
祖父が元気なときは毎日のようにけんかをしていた母は、ずっと泣いていました。そして冷たくなった祖父に「今までありがとう。苦労かけてごめんね」と言っていた母。その姿をそっと見ていた僕は、胸が締め付けられるように痛くなりました。父も人前では涙を見せませんでしたが、一人になったとき、大きな声で泣いていました。僕はあらためて祖父の存在の大きさに気付かされました。そして、祖父の命は母に受け継がれ、その母から僕の命が生まれたことをしみじみと感じさせられました。
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| 主 催 |
山形県防犯協会連合会 山形新聞社 山形放送 県青少年育成県民会議 |
| 後 援 |
山形県 山形県警察本部 山形県教育委員会 山形県少年補導員連絡会 |
| 協 賛 |
山形県交通安全協会 |
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