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酒田大火40年~つなぐ記憶

酒田大火40年~つなぐ記憶(3) 最後の現役消防士の思い

2016/10/30 11:35

 「まるで戦争の焼け跡だ」。消防隊員として精いっぱい力を尽くしたが、にぎやかだった商店街は絶望的な風景へと変貌していた。大火の夜が明けた1976(昭和51)年10月30日は、記念すべき20歳の誕生日。決して忘れられない誕生日になった。

■来春に9人が退職

出火から一夜明けた1976年10月30日の酒田市街地の様子。多くの市民が「戦争による焼け野原のよう」と衝撃を受けた

 現場に出て1年の若手だった酒田地区広域行政組合消防署消防第一課長の池田昭年消防司令長(60)が見た光景だ。一番町にあった借家も焼失した。大火を経験した最後の現役消防士の一人。池田課長を含め同期9人が来春に定年退職する。

 出火した29日は非番。夜はこの日誕生日の友人と、翌日誕生日の自分とで一緒に祝う約束だった。しかし午後6時半すぎだったろうか、その友人から火災の一報をもらい、千石町の消防署に急行した。

 装備を調え、向かった現場は中心商店街の「たくみ通り」。風下からの防御隊だった。既に火元隣のデパートに火が移っていた。いくら放水しても強風にはね飛ばされ、思うように水が届かない。消防隊の後ろのあちこちで、火の手が上がる。放水場所を変える「転戦」を迫られた。

 どの隊も転戦に次ぐ転戦を強いられていた。消防は旧浜町通りを防御線にしようとする一方、延焼域の幅が広がらないよう重機による建物の破壊消火も進めた。しかし、猛火は旧浜町通りを突破。火元から直線距離で900メートル離れた新井田川でようやく止まった。鎮火まで半日がかかった。

酒田大火を経験した最後の現役消防士の一人、池田昭年課長。強風への備えの重要性を強調する

■細かく招集の基準

 大火後の調査で、拡大の要因は▽火災通報の遅れ▽初動の消防力(人員)の不足▽強風による飛び火と放水射程の短縮▽不十分な指揮統制、連携体制―などに整理された。この教訓から、大火当時172人だった酒田地区消防組合の消防職員は4年後までに214人に増員。強風下では、通常の筒先より遠くに、大量に放水できる大口径ノズルに付け替えるルールを決め、設備も増強した。

 初動が重要として、平均風速毎秒10メートル以上の風が30分以上継続したら、風速に応じ第1~4次の特別警戒体制を敷くことも警防規程で定めた。平時の消防職員は60~61人だが、最大44人を追加招集する。風速に応じて細かく招集の基準を設けている消防組織は、全国的に非常に珍しいという。

 他地域に先んじた強風への備えは現在も続けている。今月6日未明、台風18号が県内に最接近すると予想された際も第3次特別警戒体制で18人増員し備えた。

 大火に出動した消防職員の多くは20代だった。この厚い経験者層が今年春までの5年間で68人退職。その分若手が採用され、急速に世代交代が進む。

 「初動さえ間違わなければ大火にならない。先手先手で防御する。これが鉄則」。消防人生42年間のうち37年間、火災現場に立ってきた池田課長は、消火技術とこの鉄則を徹底して次世代に伝えてきた。「酒田は風と戦わなければならない地域。酒田の消防隊員はこのことを常に念頭に置かなければならない」

 【メモ】強風で吹き付けられる火の粉で多くの消防職員・団員が目を負傷しながら消火に当たった。酒田は風による大火が繰り返し起きた歴史がある。1000戸以上を焼失した火災は、庄内大地震以来82年ぶりの大火となった酒田大火までの230年間で6回。気象庁のデータによると、県内観測地点で2015年に最大風速(10分間平均のその日の最大値)が10メートルを超えた日数は酒田が79日。山形、鶴岡はゼロ。

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