「帰りたい」の欄に印があった。2014年2月に本紙が行った避難児童対象のアンケート。石川哲也さん(45)=福島県伊達市、会社員=は何げなく長男の回答をのぞいた。妻と子が山形に避難して約2年半。戻りたいかと親から尋ねたことはなかったが、長男の気持ちを知り「決めて良かった」と、胸をなで下ろした。翌月、家族は福島での暮らしに戻った。
石川さんと妻美保子さん(40)、長男慧悟君(10)、次男絢規君(8)が住む富成地区は福島第1原発の約60キロ北西側にある。
子どもの屋外活動が制限された。外を駆け回ることも、土に触ることもできず、小さな体にストレスをため込んでいく。やるせなかった。11年10月、妻子は山形市に自主避難。自宅に残った石川さんは毎週末、家族に会いに行った。
指標値に迫る
住宅支援がいつまで続くか分からない。帰還のタイミングを自ら探った。自宅の放射線量を機器で測り、日々の変化を見た。除染のボランティアにも参加した。子の成長、妻の負担、家計、線量。どう折り合いを付けるか走りながら考えた。13年秋、自宅の線量が当初の半分ほどに下がった。年間1ミリシーベルト程度。指標とされる値に迫った。「帰れる」。石川さんは決めた。
子どもは山形の生活に溶けこんでいた。気に掛けたが、慧悟君の気持ちを知ってほっとした。家族が同じ方向に歩んだ。だから後悔しない選択ができたのだろうと石川さんは振り返る。
帰宅し、車を降りた息子たちは「吸い込まないように」と両手で口を押さえた。大丈夫だよと笑顔を向けた。「あまり目角を立てないようにしています」と石川さん。帰還から2年がたつ。古里という掛け替えのない場所で育てられること、それが大事だとあらためて思っている。
自宅でだんらんする(左から)石川哲也さんと絢規君、慧悟君=福島県伊達市
「死にたくない。まだ中1なのに」。真っ黒な水の中で、もがいた。流れにもまれ、どっちが上かも分からない。つぶったままの目に光を感じ、顔に当たる何かを手でよけると、空が見えた。「助かった」
体験伝えたい
福島県南相馬市の家を津波で失い、米沢市に避難している志賀誠さん(65)は一人息子の宏美さん(18)の話を聞きながら、5年間を振り返っていた。宏美さんは米沢七中に転入。米沢中央高に進んだ。今春、仙台市の宮城教育大に入学する。教師になり将来は福島に戻りたいと思っている。この5年間の体験を子どもたちに伝えることが自分の使命だと考えたからだ。
「命の大切さ、人の温かさ、感謝する心を伝えたい。心の復興が福島の復興に一番大事だと思うから」。宏美さんが将来の夢を語り終えると、志賀さんは、つぶやいた。「間違っていなかった。そう思えることがありがたい」
宏美さんの脇で妻の恵子さん(59)が目を赤くしていた。「ありがたいね。米沢の人には本当によくしてもらった」。今度は満面の笑みで息子の顔をうかがった。
志賀さん、恵子さん、宏美さんは自宅近くで津波に流された。一命を取り留めたが、志賀さんは4日間、入院。恵子さんと宏美さんは避難所を転々とした。志賀さんの退院を待って合流し米沢市内の親戚宅へ。4月から団地に入居し避難生活を始めた。
志賀さんの南相馬の自宅周辺は津波の災害危険区域に指定され、戻れない。今、福島市内に新しい家を建設中だ。入居は来年1月。志高く古里・福島に戻ってくる宏美さんを恵子さんと一緒に待つつもりだ。
笑顔で語り合う(左から)志賀誠さん、宏美さん、恵子さん。宏美さんは今春、福島で教師になる夢に向かって歩み始める=米沢市
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