庄内地震から1年後の1895(明治28)年11月、文部大臣西園寺公望に報告書が提出された。「庄内地震ニ関スル地質学上調査報文」。作成したのは帝国大学理科大学教授・小藤文次郎。小藤は1891年10月、岐阜県西部で発生した濃尾地震の震源断層を発見したことで知られている。
濃尾地震はマグニチュード(M)8。内陸地震では国内最大、死者7273人、建物全壊14万余、山崩れ1万余という大災害となった。小藤は、この惨事を受けて設けられた震災予防調査会委員として庄内平野を訪れた。
震源断層探し
地質構造や過去の地震などについて詳細に述べた後、小藤は、亀裂や建物倒壊の方向などから、現在の酒田市南部から東部にかけて走る「矢流沢(やだれざわ)断層」を震源断層と推定。「濃尾地震ノ際ノ如ク地表ニ明白ナラス」としながらも「経験上ヨリ観察スルニ(略)自信ス」と記した。
しかし、矢流沢断層は近年、存在自体が疑問とされており、政府の地震調査研究推進本部の資料には示されていない。その理由は、断層が走る方向にある。東北日本は地殻変動で東西から圧縮されているため、活断層の多くが南北に発達する。庄内平野東縁断層帯も同様だが、小藤が示した「断層」は現在認定されている活断層と、大きく斜交している。
庄内平野東縁断層帯で数多くの調査を行ってきた名古屋大教授の鈴木康弘は、1988(昭和63)年に発表した論文で「小藤説」を否定した。鈴木は走向の違いに加え、もう一つ理由を挙げる。「住民の記憶や当時の文書を基に再確認した結果、決壊したとされた柳沢池の位置が実際と違っていたことが分かった。小藤は被害地点を結び付けて一つの直線となることから『矢流沢断層』を想定したが、位置の誤認によって前提が崩れた」
小藤文次郎が作成した庄内地震の被害地図。東北東―西南西にかけて「矢流沢断層」を示す赤い線が引かれている(「庄内地震ニ関スル地質学上調査報文」より)
痕跡も未確認
それでは、どこが震源なのか。鈴木は当時の被害分布から、観音寺や通越断層の可能性が高いと言う。ただ、庄内平野東縁断層帯の地震活動史を検討するため87年、観音寺断層で行ったトレンチ(溝)調査では、庄内地震の痕跡を示すような断層は確認できなかった。これは、従来の調査では過去の大地震を見逃している可能性があることを示唆する。
「活断層とは何か」(東京大学出版会)では、地震時に地表に現れる断層(地表地震断層)は「震源の浅い内陸地震(深さ20キロ以浅)の場合、M6.5の地震から現れ始め、M7以上ではすべての地震で断層が認められている」とした。しかし、庄内地震はM7とされながら、いまだに地表地震断層は発見されていない。
地震予知連絡会前会長の島崎邦彦は2008年、活断層研究に発表した論文で、トレンチ調査で庄内地震は認知されなかったことなどを紹介した上で、「主要活断層帯で発生するM7以上の地震の頻度は過小評価されている可能性がある」と指摘した。
「直下型地震の恐ろしさは、身構える間もなく突然起きるということ」と鈴木は話す。「阪神大震災では6434人が犠牲になったが、その多くは即死。なぜ自分が亡くなったのかも分からずこの世を去らねばならなかった」
現代の活断層科学では不明な点も数多い。しかし、犠牲者の死を無駄にしないためにも「不確定な理解であることを念頭に置きつつ、常に最新の知見によって軌道修正しながら対策を考える必要がある」。著書「活断層大地震に備える」で鈴木は訴えている。=敬称略
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る