国道7号を日本海沿いに北から南へ走る。短いトンネルを抜け、しばらくすると、小さな集落が見えてくる。鶴岡市堅苔沢(かたのりざわ)。国道から山側に入ってすぐ、聖徳寺に向かう寺坂の中腹に石碑が二つたたずんでいる。「これは津波で犠牲になった人々を供養するために建てられたという言い伝えがあるんです」。地元に住む志田孝士さん(84)は語り始めた。
その津波は、1833(天保4)年に襲来した。酒田市史によると、この年の10月26日午後4時に1回目の地震が起こり、その後、5~6日間、余震が続いた。天保4年は6月に大洪水があった上、冷夏となり大凶作に。9月末には雪が降るなど異常気象の一年だった。追い打ちを掛けるように大地震が襲った。
酒田市史は次のような文章を紹介している。「加茂の入間(いりま)、半時ばかり海水が一里も引いた。浜の人達は魚や貝類を拾いに出た。沖から五丈(15メートル)もの大浪が打ち寄せ、海辺の村々の家蔵人牛馬が、引き浪で海に引き込まれた」
石碑には文字が刻まれているが、風化が進み、容易には判読できない。それでも志田さんは「津波犠牲者の供養塔」と確信している。「この石碑はね、昔、大津波が来て亡くなった人の供養塔なのよ。しかも、津波はここまで上がったという記録の碑でもある。だから大事にしていかねばねぞ」。志田さんは、10代のころ聖徳寺住職の娘さんが教えてくれた話を、今もはっきり覚えている。
堅苔沢の石碑がある場所は海岸線の近く。当時は国道も防波堤もなく、ここまで津波が迫ったとしても疑問には思えないが、「180年も前の出来事で、地元の人は多くが『ここには津波は来ない』と信じている。自分の両親もそう言っていた」
石碑は10年ほど前、斜面に倒れ込むような形で傾いた。地元の自治会で元通りにしたが、言い伝えが本当に正しいのか調べてみようと、志田さんは鶴岡市郷土資料館に解読を依頼した。
資料館によると、石碑には7人の戒名が刻まれていた。当時の村役人の報告書には堅苔沢村で7人が溺死した記録が残っており、一致する。ただ、別の古文書には犠牲者は8人となっていて数字が合わず、断定はできないという。それでも「数字に大きな違いはなく、供養碑の可能性が高い」と話す。
東日本大震災が発生した3月11日。津波警報を受け、堅苔沢でも避難指示が出された。しかし、「太平洋側の地震だから、おっかなぐねのんねが」。住民の中には、避難所まで上らず様子をうかがう人もいた。連絡用のトランシーバーは充電されておらず使えなかった。「残念ながら、それが実態」
風化し、こけむした二つの石碑の前に立ってみた。西側に目をやると、家々の間から日本海が見下ろせる。「先祖が後世のために残してくれたこの石碑を、自分たちは感謝しながら伝承していかなければならない」。志田さんはそう思っている。
石碑を前に手を合わせる志田孝士さん。細い寺坂を下ったその先に日本海が見える=鶴岡市堅苔沢