本当の地震。こんな言い方はおかしいかもしれない。地震に「うそ」も「本当」もない。しかし、あの時、頭に浮かんだのは「これが本当の地震なのか」という思いだった。1983(昭和58)年5月26日の日本海中部地震。県漁協飛島支所の所長だった池田英男さん(72)=酒田市飛島勝浦=は勝浦の海に面した事務所で昼食を取っていた。そこに大きな揺れが襲った。震源は男鹿半島沖、マグニチュード(M)7.7。日本海沿岸部では広範囲に津波が押し寄せた。
「飛島は地盤が固いんだ」。池田さんは話す。64(同39)年6月、26人の死者を出した新潟地震(M7.5)は本県でも酒田、鶴岡を中心に大きな被害が出たが、飛島ではそれほど揺れを感じなかった。その後も地震は起きたが、「酒田市に比べると、いつも揺れが小さい。地震はそんなもんだ」。だが、日本海中部地震は違った。
揺れが異常に長かった。これまでの経験では、地震は起きてもすぐ収まる。しかし、大地の怒りは止まらなかった。「必ず津波が来る」。仲間と話し合い、漁協所属の船に沖合に逃げるよう無線で緊急指示を出した。当時、飛島には120~130の漁船があり、一斉に避難を開始。多くは島の沖合1キロ付近で津波が鎮まるのを待った。間に合わなかった船もある。勝浦で5隻、法木で2隻、中村で1隻、計8隻が転覆した。
酒田と飛島の定期連絡船「とびしま丸」は間一髪で免れた。「発着場は漁協の事務所のすぐそば。船長に『沖合に避難した方がいい』と話をした」。船が出て4、5分後、津波が襲った。
津波は黒かった。池田さんによると、いったん海面が20センチほど上昇、「ただ事ではない」と思った直後、海水が泥を巻き込みながら引いていったという。約4メートル下の海底が見えた。海草があらわになった。もう一度押し寄せた時には真っ黒な色に変わり、海岸線に迫ってきた。
「漁協同士の交流で三陸には何度も行った。そのとき、津波の話をよく聞いたが、自分には関係ないと思っていた」。だが、意識が変わった。この地震の死者は104人。このうち津波による被害は100人に上る。
東日本大震災は死者・行方不明者2万3千人を超える大惨事となった。多くが津波の犠牲者だ。「地震が起きたら、まず逃げること。一切考えずに」。津波を目の前で体験した池田さんは言う。「地震や津波にはいつどこで遭うか分からない。役所が決めた避難路や避難場所を確認することも大切だが、自分の命は自分で守る。最終的には、その意識が一番大事だ」
「あの時は黒い津波が押し寄せてきた」。日本海中部地震の体験を振り返る池田英男さん=酒田市飛島